本書には、科学の歴史を大きく動かした天才たちが次々に登場する。だが、その功績をたたえる内容ではない。発見が世界を変えるそのとき、発見した本人の内側で何が起きていたのかを、しつこいほどに追いかけていく。
4篇と1篇のエピローグから成る。巻頭の「プルシアン・ブルー」は最も短いが、強い導入になっている。プロシアンブルーという青色顔料の誕生から、第一次世界大戦の毒ガス兵器開発に至るまでの歴史を辿りながら、化学者フリッツ・ハーバーの生涯を描く。空気から窒素を取り出して肥料を大量生産したアンモニア合成法の発明で何億もの人命を養い、同時に塩素ガスを戦場に解き放った男。その矛盾を本書は解決しない。ただ並べる。
「シュヴァルツシルトの特異点」は第一次世界大戦の塹壕にいた天文学者カール・シュヴァルツシルトの話だ。アインシュタインの一般相対性理論の方程式から、史上初めてブラックホールの存在を示唆する解を導いた男が、前線の泥の中で皮膚病に蝕まれながらその計算を行った。発見の場所の異様さが、発見の内容の異様さと共鳴する。
「核心中の核心」では不世出の数学者アレクサンドル・グロタンディークが中心に置かれる。代数幾何学を根底から書き換えた後、突然数学界から姿を消し、山奥で隠遁生活を送った謎の人物だ。そこに日本人数学者・望月新一の名が交差する。望月が発表したABC予想の証明は、多くの数学者には理解不能で、正しいか否かが十年以上経っても確定しない。この「理解できない証明」のエピソードを本書が引き込むことで、「人類が世界を理解できなくなる」という主題が初めて具体的に描写されていく。
最も長く最も密度が高いのが「私たちが世界を理解しなくなったとき」だ。ハイゼンベルク、ド・ブロイ、シュレーディンガーという量子力学の黎明を担った三人の理論物理学者を追う。各自が啓示に近い体験を経て、世界の根本記述を書き換えた。しかし量子力学が確立したとき、世界は人間の直観が届かない場所へ移行していた。物理学者たちは自分たちが扉を開けた先に何があるかを、完全には理解していなかった。
本書がフィクションとして機能するのは、伝記的事実に虚構の補填を施しているからだ。著者ラバトゥッツは「事実の外皮をまとったフィクション」と自ら位置づけており、どこまでが史実でどこからが創作かは読者に開示されない。その曖昧さが不安として作用し、読者は科学者たちの発見と狂気の記述を、同じ温度で受け取ることができよう。
エピローグ「夜の庭師」では、作者と思しきチリ人の語り手が元数学者の庭師と出会う。そこで語られる「恐るべき緑」とは何か——地表を覆い尽くそうとする何かの比喩として、本書のすご味が最後に凝縮する。2021年度英国PEN翻訳小説賞受賞、国際ブッカー賞・全米図書賞翻訳部門最終候補、バラク・オバマ元大統領の愛読書リスト選出。既存のジャンルを軽やかに飛び越えるこの本の強度は、受賞歴よりも、読後に世界の見え方が少し変わるという体験の中にある。
¿Y si esta espléndida pesadilla no fuera obra vuestra, de quién sería entonces?
この素晴らしい地獄は、あなた方のおかげでないとしたら、いったい誰のおかげでしょうか?
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