本書は、SF作家として知られるフィリップ・K・ディックの処女作であり、生前には一度も出版されなかった作品である。1950年代初頭に執筆された純文学作品だが、暴力描写などを理由に出版社から拒否され続け、ディックの没後25年にあたる2007年になってようやく刊行された。
ディックは生涯を通じて純文学作家になることを望んでいた。本書は、彼が「本当に書きたいもの」として書き続けながら世間に受け入れられなかった作品群のひとつであり、なぜ最終的にSFという形式に活路を見出したのかを考えるうえでも興味深い一冊である。
舞台は1950年代のサンフランシスコ。テレビ販売店で働くスチュアート・ハドリーの日常は、ある出来事をきっかけに少しずつ崩れていく。SF作品でありながら、本書には未来技術も奇想天外なガジェットも登場しない。描かれるのは、自分の価値が正当に認められないことへの不満、周囲からの的外れな評価への苛立ち、そして自分自身の輪郭すら見失ってしまうような深い疎外感である。
この疎外感は、当時のディック自身の姿と重なる。1950年代の彼は極度の貧困の中にあり、「図書館の本の延滞料すら払えなかった」と語られるほど苦しい生活を送っていた。SF短編を書いて生活費を稼ぐ一方で、出版の見込みもない純文学を書き続けていたのである。
25歳の若きディックが自身の経験や感情をぶつけた本書には、後年の代表作に通じるテーマがすでに顔をのぞかせている。現実とは何か、自分とは何者なのか。そうしたテーマが、SF的なギミックを介さず、むき出しの形で描かれている。
一方で、作品としては粗削りな印象も否めない。物語は散漫で、視点や場面の切り替えに脈絡を欠く部分もある。感情表現も制御されているとは言い難く、全体としてまとまりに欠ける。しかし、その未完成さこそが本書の魅力でもある。後年の緻密なSF作品を書く以前の、若きディックの怒りや不安、衝動が生々しく刻まれているからだ。
また、訳者の阿部重夫による解説も読みどころのひとつである。ジャーナリストならではの視点でまとめられたディックの伝記的解説は非常に充実しており、作品理解を大きく助けてくれる。本文とあわせて読むことで、ディックという作家の全体像がより鮮明に見えてくる。
すでに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『高い城の男』を読んでいる人にとって、本書はディックとの「逆順の出会い」となるだろう。SF作品の中に封じ込められていた彼の不安や怒り、疎外感の源泉が、ここでは何の装飾もなく露出している。
没後25年を経てようやく世に出たこの処女作は、完成度の高さよりも、ディックという作家の出発点を知るための貴重な記録として読む価値がある。
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