「あなたは、否応なく、王として旅を続けなくてはならない」
2009年、大手IT企業Jプロトコルの営業マン・中井は、バンコクでの商談帰りに立ち寄ったマカオで、一人の娼婦からそう告げられる。根拠のないはずの予言だったが、その言葉は中井の心に深く残り続ける。そして彼は、香港、マカオ、サイゴンを舞台とした企業犯罪の渦へと巻き込まれていく。
本作は早瀬耕のデビュー以来22年ぶりとなる長篇小説で、2014年に刊行された。デビュー作『グリフォンズ・ガーデン』が人工知能と実存をテーマにしたSFだったのに対し、本作は企業犯罪やスパイ小説、香港ノワール、恋愛小説の要素を融合させた異色作である。さらに、その物語はシェイクスピアの『マクベス』を下敷きにして展開していく。
タイトルの『未必のマクベス』にある「未必」は、法律用語の「未必の故意」に由来する。結果を予見しながらも、それを受け入れて行動する心理を指す言葉だ。本作においては、自らがマクベスと同じ運命をたどるかもしれないと知りながら、その道を進む中井の姿勢を象徴している。宿命と自由意志のあいだで揺れる主人公の感覚が、作品全体を流れてい 。
登場人物たちも『マクベス』の配役に対応している。中井はマクベス、高校時代の友人・鍋島はバンクォー、そして中井の恋人はマクベス夫人の役割を担う。この対応は序盤から比較的わかりやすいが、原典を知らなくても物語そのものは十分に楽しめる。一方で『マクベス』を知っている読者には、先の展開を予感させる独特の緊張感が加わる。
また、本作の大きな魅力の一つが香港とマカオの描写だ。日本の企業社会の閉塞感と、マカオの危険で妖しい解放感との対比が鮮やかで、舞台が移るたびに物語の空気も変化する。序盤は専門用語や難しい漢字が多く、やや取っつきにくい印象を受けるかもしれない。しかしマカオが主舞台となるあたりから一気に加速し、中盤以降はページをめくる手が止まらなくなる。
本作の魅力は、一つのジャンルでは語り尽くせない。ミステリとしても、ノワールとしても、恋愛小説としても、そして『マクベス』の現代的な変奏としても読める。どこから入っても楽しめる懐の深さがあり、読み終えたあとには、中井が「王として旅立った」先にある運命について、長く思いを巡らせることになる。
とにかく面白い。読者のあいだで語られる「小説としての地力が圧倒的」という評価は決して大げさではない。624ページという長さを感じさせない、力強い傑作である。
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