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言葉が消えるとき、世界も消える——残像に口紅を

「あ」が消えると、「愛」も「あなた」もなくなった。

この一文が本書の全構造を語っている。章が進むごとに、日本語の音がひとつずつ小説の文面から失われる。音が消えれば、その音を含む名を持つものが世界から消える。「パ」が消えればパソコンが、「に」が消えれば日本酒が、日常の風景からひっそりと抜け落ちていく。

主人公は神戸在住のSF作家・佐治勝夫。筒井康隆自身を色濃く投影した人物で、妻と娘たちに囲まれた日常を送りながら、使える言葉がどんどん減ってゆく世界のなかで執筆し、飲食し、講演し、恋をする。序盤は言葉を失う前の豊かさが際立ち、消えたものへの懐古と郷愁が漂う。「パ」や「ぽ」が消えるだけならまだ余裕がある。しかし「あ」や「い」や「う」のような基本音が消え始めると、文章はみるみる窮屈になっていく。

この小説の凄みは、制約が強まるほど読み応えが増すという逆説にある。使える文字が40音を下回り、30音になり、20音を切ってもなお、主人公は書き続ける。語り口が訥々としてくる一方で、その不自由さから思いがけない表現が生まれ、言葉が貧しくなるはずの場所から感情が滲み出てくる。音が12しか残っていない状態で語られる幼少期の回顧録は、制約がもたらした奇跡的な迫力を持つ。

この手法は「リポグラム」と呼ばれる制約詩の一種で、特定の文字を意図的に使わずに文章を書く技法だ。西洋では「E」を一字も使わずに書かれた小説『煙滅』(ジョルジュ・ペレック)が有名だが、日本語の音節体系に適用したのが本書の独自性であり、それを五十音全体に対して順次施していくという規模はほかに例がない。しかも連載で書かれたという事実が、この試みをさらに驚異的なものにしている。

単行本初版には、半ばから後を袋とじにして「ここまで読んで面白くなかった方は、この本を中央公論社まで持参すれば代金を返します」という但し書きが付いていた。その挑発は本物で、実際に後半の密度と迫力は前半と別の次元にある。言葉が消えることと存在が消えることを同一視するこの小説は、メタフィクションとしても、言語論としても、喪失の物語としても読める。

本書が1989年の発表から35年以上を経てTikTokで話題になり重版を繰り返した事実は、仕掛けの強度がいかに普遍的であるかを示している。言葉を扱う仕事をしている人間ほど、この本は読んでおいたほうがいい。



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