タイトルはシェイクスピアの「ソネット73番」から採られている。老いと喪失を詠んだあの詩が、この小説の全体を覆っている。
舞台は近未来のバージニア州シェナンドア渓谷。核汚染と環境破壊によって地球上の生物は生殖能力を失いつつある。その危機を察知したサムナー一族は資産を集結し、クローン技術を開発して人類の存続を試みる。第一部では生物学者デイヴィッドの視点から、一族がクローン人間の誕生に漕ぎ着けるまでの経緯が描かれる。目的は達成されたが、デイヴィッドはクローンたちが従来の人類とは根本的に異なる何かを持ち始めていることに不安を覚える。
クローンたちには独特の性質がある。同じ遺伝子から生まれた兄弟姉妹は常に精神的につながっており、一人でいると不安を感じ、仲間から切り離されることを本能的に恐れる。個より集団、自我より共感が絶対の価値となった社会では、個性を持つ者は異常者として排除される。第二部の主人公モリーは、廃墟と化したワシントンへの探検旅行中に孤独と試練にさらされることで自我と芸術への衝動に目覚めてしまう。仲間のもとへ戻っても以前のようにつながれない彼女は、麻薬漬けにされ「繁殖員」として管理される。モリーの受難を見守る第二部が本書の核であり、個性とは何か、想像力とは何かおという問いが最も鮮明に提出される場所だ。
第三部は、モリーが有性生殖で産んだ息子マークの物語だ。クローン社会で異端児として生きながら、世代を経るにつれ創造性と想像力を失っていくクローン集団の限界を見届けたマークは、やがて決断を下す。このラストの余韻が、タイトルの意味を読者の中でゆっくりと開かせる。
クローンが均質化へ向かうほどに社会は安定するが、突発的な危機への対応力を失っていく。この論理は生物学的な観察に裏打ちされており、多様性が種の存続を支えるという命題をSFの語りで証明しようとする構造になっている。しかし本書が単なるSF的な命題小説にとどまらないのは、モリーとマークの苦悩が具体的な人間の痛みとして描かれているからだ。クローン社会の全体主義的な「追悼式」制度——社会的に存在しないことを宣告する儀式——が持つ冷たさは、純粋にホラーとして機能する。
ケイト・ウィルヘルムはアーシュラ・K・ル=グウィンやジェイムズ・ティプトリー・Jr.と並び称された作家だが、日本ではこれまで長く入手困難だった。1982年のサンリオSF文庫版から38年を経て、2020年に創元SF文庫として復刊されたことで、新しい読者との出会いが生まれた。1977年にヒューゴー賞・ローカス賞・ジュピター賞を制した本作は、生き延びることと、人間であることは同じではないと、語っている気がする。
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