19世紀初頭、シベリアに突如として〈荒れ地〉が現れた。そこは生命と色彩に満ち、人間の理屈では捉えきれない異形の世界。その出現によって歴史は大きく変わった——本書は、そんな歴史改変SFとして幕を開ける。
舞台は1899年。北京からモスクワへ向かう特別列車が、危険な〈荒れ地〉を横断していく。シベリア横断鉄道会社が運行するこの列車は、〈荒れ地〉を通過できる唯一の交通手段だ。しかし旅を続けるうち、車体や乗客には「侵蝕」と呼ばれる奇妙な変化が現れ始める。
主人公マリヤは、父の汚名を晴らすため偽名で列車に乗り込む。列車で育った少女ウェイウェイ、いつの間にか紛れ込んでいた謎の少女エレナ、さらにそれぞれ秘密や思惑を抱えた乗客と乗務員たち。閉ざされた車内で人間関係と異変は少しずつ絡み合い、列車は〈荒れ地〉の奥へと進んでいく。
本書最大の魅力は、やはり〈荒れ地〉そのものの描写にある。ある読者が「諸星大二郎のイメージ」と評していたが、その感覚は非常によくわかる。説明不能な生命がうごめき、既知の生物は異様に変容していく。論理ではなく感覚へ直接迫ってくるその世界は、ホラー、ファンタジー、幻想文学が溶け合った独特の雰囲気を生み出している。
とりわけ圧巻なのは後半、〈荒れ地〉が列車そのものを侵蝕していく場面だ。不気味でありながら陶酔的ですらあるその光景は、本書を単なる冒険SFライクでは終わらせない。「美しい」という感想が多く語られるのも納得できる。
一方で、本書はSF的な説明をかなり抑えている。〈荒れ地〉とは何なのか、侵蝕はどんな原理で起きるのか。そうした謎は最後まで明確には語られない。そのため、人によっては物足りなさを感じるかもしれない。
しかし本書が描こうとしているのは、未知を解明することではなく、「理解できないもの」と人間がどう向き合い、共存していくかという感覚そのものなのだろう。前半では歴史改変SFとして始まった物語が、後半になるにつれて幻想文学やファンタジーへ滑り込んでいく構成も、そのテーマと深く結びついている。
著者サラ・ブルックスは、中国留学からの帰路で実際にシベリア鉄道へ乗車した経験を持つという。その体験は、列車内に漂う濃密な閉塞感と、車窓の外に広がる大地の圧倒的な広さの対比に色濃く表れている。
また、1899年という時代設定も印象的だ。帝国主義の空気、シベリア横断鉄道会社が抱える利権と隠蔽、マリヤの父が暴こうとした「何か」。そうした政治的背景は物語の底流に流れ続けているが、それ以上に前景へ迫ってくるのは、〈荒れ地〉と接触した人間たちが少しずつ変容していく感覚だ。
サラ・ブルックスの第一長篇として、その鮮烈な想像力を強く印象づける一冊である。読後もなお、〈荒れ地〉の光景だけは脳裏に焼きついて離れない。
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