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月面のどん底で生きる女が、一世一代の危険な仕事を引き受ける——アルテミス

アルテミスは、五人の宇宙飛行士の名を冠した五つの球体「バブル」から成る月面都市を舞台にしたSFだ。人口は約2000人。富裕層向けのリゾートと、その生活を支える労働者階級が同居するこの都市で、主人公ジャズ・バシャラはポーターとして荷物を運びながら、裏では密輸品をさばいて日銭を稼いでいる。

ジャズは、狭いカプセルホテル暮らしで慢性的な金欠。父との関係も悪く、友人も少ない。しかし本人はあまり深刻に考えていない。口が悪く、抜け目がなく、感情的に突っ走ることもあるが、どんな状況でも諦めない人物だ。

そんな彼女のもとに、大物実業家トロンドから危険な依頼が舞い込む。報酬は100万スラグ。内容は、アルテミス経済を支えるアルミ精錬施設の破壊工作だった。当然ながら合法ではない。それでも、その額はジャズにとって人生を変えるほど大きい。

前作『火星の人』とはかなり雰囲気が違う。最大の違いは、主人公のキャラクターだ。マーク・ワトニーが孤独な環境で科学知識を武器に生き延びるタイプなら、ジャズは都市社会の中で人間関係や駆け引きを使って動くタイプ。それでいて、語り口も軽快でコミカル。読み始めは「本当に同じ著者なのか」と感じる読者もいるかもしれない。

一方で、アンディ・ウィアーらしい緻密な世界設計は健在だ。6分の1重力の月面でシャワーはどう使うのか。真空環境で排熱をどう処理するのか。月面都市の通信や経済はどう成り立つのか。そうした細かな設定が、ジャズの日常描写の中に自然に組み込まれている。

特におもしろいのは、その設定が後半の破壊工作に直結していくところだ。序盤で積み上げられた月面都市の仕組みが、そのままサスペンスと作戦の面白さにつながっていく。この「設定が物語を動かす感覚」は、本作最大の魅力だろう。

前作より評価が分かれる理由も理解できる。ジャズの軽妙な口調は好みが分かれるし、惑星規模のサバイバルを描いた『火星の人』に比べると、物語のスケールは小さく感じられる。しかし、月面都市という閉鎖空間を舞台に、知恵と工夫で危機を切り抜けるエンタメとして、本作は十分に完成度が高い。

著者は、この世界観で複数作品を書く構想を語っており、本作はその第一作という位置づけでもある。『火星の人』の次に読む一冊としては、方向性の違いを理解したうえで手に取れば、しっかり楽しめるSFだ。



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