本書の前に、まずは著者のエッセイを読んでみて欲しい。小説『最高糖度をきみに』と、主題やイメージで強く関連している。
このエッセイは、10代のころの自分を振り返るところから始まる。透明なガラスに囲まれたような、安全で守られた空間。その内側にいた当時の自分は、他人の目や世間のルールに包まれながら、まだ自分の意志で動くことを強く求められてはいなかった。
やがてその外へ踏み出したとき、状況は一変する。自分で考え、自分で選び、動くことが避けられなくなる世界。主体性や葛藤、後悔や期待といったものを引き受けながら生きていく段階へと移っていく。エッセイは、その移行を起点に、守られていた自分から、選ばざるを得ない自分へと変わっていく過程をたどっている。
この感覚は、そのまま本書の核にもつながっている。自分の外にあったはずのものと距離を取りきれなくなり、関わらずにはいられなくなる感覚。触れられないのに惹かれてしまう関係性。そうしたあり方を端的に言い表しているのが、「触れ合えない、だから愛おしい、未来の恋のカタチ」というキャッチコピーだ。
不幸な人だけが青春期に出逢う虚体の少女〈みあめ〉。ホログラムのような、正体不明の存在だ。主人公の「僕」は10年前の11歳のとき、みあめと出逢った。そして21歳の今も不幸せなままでいる。だから成長したみあめが目の前に現れる。幸福になった人間のもとには、みあめは訪れない。つまりそれは、今もまだその人が傷ついているということだ。
SFとしての設定、虚体とは何か、なぜ不幸な人の前にだけ現れるのかは、本書では謎として徹底して開示されない。みあめの正体について語られないことが、むしろ彼女の存在の輪郭を際立たせる。触れることができない相手に感じる愛おしさは、接触不可能性によって純化される。そのロジックがSFの衣をまとうことで、単なるロマンスにとどまらない要素を引き連れてくる——人はなぜ、手に入らないものを愛してしまうのか。
「なりたいわたしとか、自分の意志とか、そういうのじゃなくて…………ただ、わたしが飛んでいくための光なんだ」という本文中の言葉が、本作のトーンをよく伝えている。本書は、苦しさを抱えたまま生きることへの不器用な肯定の物語として読むことができる。こうした作品は、時間をかけてじわじわと読者に届いていく性質がある。
読み進めるうちに、読者は自身の内側にある名付けようのない重りを見つめ直すことになるだろう。そこですくい上げられるのは——触れられないまま保たれる感情。互いに踏み込みすぎないその距離によって、かろうじてかたちを与えられた愛おしさは、むしろ愛の原型にもっとも近いのかもしれない。

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