冒頭に家系図が置かれている。ページを開いてすぐ、読者はその一族の中に放り込まれる。
語り手は「わたくし」と名乗るアンドロイドだ。この一族に仕え、「御羊」の肉を捌き、血族に食べさせることを生業としている。御羊とは何か。直系の男性が死の間際に変身するものだ。その肉を家族で食む儀式が、何代にもわたって受け継がれてきた。
物語は、大旦那が御羊になるところから始まる。「わたくし」は儀式の準備を進めながら、一族の記憶の中を漂いはじめる。
この小説の文体は、一般的な物語の運びとは別の論理で動いている。「わたくし」の語りは、現在から過去へ、過去からさらに別の過去へと、予告なく移行する。どこまでがいまの出来事で、どこまでが記憶なのか。その境界は読み進めるうちに溶けていく。
しかし、この不安定さは欠点ではない。「わたくし」がアンドロイドであるという設定が、それを支えているからだ。記憶が整然と並ばない機械の出力として、この語りの揺らぎはむしろ必然に感じられる。
一族の面々も印象深い。ジェンダー不適合、性転換を望む者、両性具有、童貞のまま子を残した者。それぞれの特性は説明的に強調されるのではなく、生い立ちや性格の描写の中に自然に織り込まれていく。
男性だけが御羊になるという設定と、一族に蓄積されたジェンダーの多様性。このふたつはどこかで響き合っているようでいて、作品はその接続を明示しない。読者はその余白を抱えたまま読み進めることになる。
選考委員の間でも評価は割れた。小川一水はオリジナリティを高く評価し、東浩紀は当初最低点を入れつつも選考会での議論の末に大賞を推した。「文学に正解はない。それほどにだれかの心を掴んだのであればなんらかの真実があるだろう」という東の言葉は、この作品に向き合ううえでひとつの手がかりになるだろう。
好みが分かれる小説であることは確かだ。「わたくし」の語りに身を委ねられるかどうかが、大きな分かれ目になる。
ただ、そこを越えられたときに見えてくるものは確かにある。一族の人々が「わたくし」に向ける眼差し、記憶の中で繰り返される儀式の色彩、そして最後に訪れる自己言及的な余韻。それらは読み終えたあとも、ゆったりと残り続ける。
人間も機械も、記憶を受け渡すために存在しているのかもしれない。その感覚は、御羊の儀式のように、一族の時間の底へと沈殿していく。
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