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神はこの世界に手を出せない、だから人間がその役目を担っている——ドゥームズデイ・ブック

タイトルの「ドゥームズデイ・ブック」は、ウィリアム征服王が1086年に作らせたイングランドの土地台帳の名前だ[1]。しかし「doomsday」には「最後の審判の日」「運命の日」という意味もある。その両義性がこの小説全体に漂っている。記録すること、記録を残すこと——それが何かと戦う最後の手段になりうるという感覚が、読み終えてから長く尾を引く。

舞台は2054年のオックスフォード。タイムトラベルが歴史研究の手段として確立されたこの時代、史学部の女子学生キヴリン・エングルは、前人未踏とされる14世紀への実習旅行を志願する。指導教授ダンワージーは猛反対するが、他の教授の独断で送り出しが強行される——そしてキヴリンを送り出した直後、タイムマシンの技術者が原因不明のウイルスで倒れる。キヴリンが無事に到着したかどうかを確認する術がないまま、未来のオックスフォードでも感染が広がり始める。

この二重のパンデミックという構造が本書の骨格だ[2]。14世紀ではペスト(黒死病)が猛威を振るい、2054年では謎のインフルエンザが人々を次々と倒していく。二つの時代は直接つながっていないのに、物語の中で奇妙に共鳴し合う。中世の弔鐘の音と、現代の鳴鐘者たちが鳴らすクリスマスの鐘が、時代を超えて響き合う——こういう仕掛けがウィリスは絶妙にうまく、気づいたときに背筋が冷える。

キヴリンというキャラクターが素晴らしい。中世に到着直後から高熱で倒れ、言葉もろくに通じないまま見知らぬ人々の家に転がり込む。状況を把握できないまま、それでも記録を続ける。自分がどこにいるのかわからないまま、できることをやり続ける。その姿が、読んでいるうちにじわじわと胸を打つようになる。強さを誇示するのではなく、弱さを抱えたまま誠実であり続けるヒロイン像として、キヴリンはSF史上でも屈指の存在だと思う。

未来パートで奮闘するダンワージー教授もいい。生真面目で心配性で、融通の利かない官僚や病院の事務処理に手を焼きながらも、キヴリンを取り戻すことだけを考えて動き続ける。彼の周囲を飾るコミックリリーフの面々——トイレットペーパー不足に悩む秘書フィンチ、隔離病棟で黙示録的な演説を繰り広げるミセス・ギャドソン——が、重くなりすぎる物語に絶妙な空気を入れている[3]。ウィリスのユーモアのセンスが、本書の暗部を耐えさせてくれる。

下巻の終盤、疫病が集落を飲み込んでいくにつれて読むのが辛くなる。それでも読むのをやめられない。神はこの世界に手を出せない、だから人間がその役目を担っている——そういう感覚がじわじわと積み上がっていくからだ。誰も救えないかもしれない。それでも最善を尽くすことをやめない人間たちがいる。ウィリスが本書で書きたかったのは、たぶんそのことだと思う[3]。

ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞の三冠は、英語圏SFとしては空前の快挙だ[1]。1992年の作品でありながら、コロナ禍を経た今読むと、パンデミック描写の精度に改めて驚かされる。著者ウィリスはペストなどの疫病への関心から本書を書いたと語っており[2]、その関心の深さが小説の密度に直結している。

『闇の中をどこまで高く』や『地球の果ての温室で』とパンデミックというテーマで共鳴するが、本書はその中でも最も「人間への信頼」が前面に出た一冊だ。絶望的な状況に置かれても、人間はどこかで誠実であろうとする——その命題を、SFという形式で最も力強く書いた小説のひとつだと思う。


参考文献

[1] ネコショカ. “『ドゥームズデイ・ブック』コニー・ウィリスの名作タイムトラベルSF”. ネコショカ(猫の書架). 2023-02-27. https://www.nununi.site/entry/doomsdaybook, (2026-03-31).

[2] fast_lilac4210. “コニー・ウィリス『ドゥームズデイ・ブック』”. note. 2025-10-14. https://note.com/fast_lilac4210/n/n8dba934f3da8, (2026-03-31).

[3] 大森望. “コニー・ウィリス『ドゥームズデイ・ブック』文庫版訳者あとがき”. 大森望のウェブサイト. https://www.asahi-net.or.jp/~kx3m-ab/dbpb.html, (2026-03-31).



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