ご主人は私を床へ置くと、年季の入った木造の階段をぎしぎし音を立てつつ登っていきました。ふらふらとした足取りに毎度のことながら一抹の不安を覚えますが、ご主人は見た目の割に頑丈な作りになっているので問題ないでしょう。時折躓いてはおりましたが。
古びたジュークボックスからクラシカルジャズが奏でられています。マスターさんはそのジャズの音色に合わせて肩を左右に小さく揺らしながら、手動ミルを使ってコーヒー豆を挽いています。一方私は、海沿いに置かれていた観葉植物の鉢の前に佇みます。いざ、尋常に勝負です。私は音に合わせて葉っぱに猫パンチを食らわします。細長い短冊のような葉が跳ね返ってきてはもう一度パンチ、五回それを繰り返した後、最後の最後で葉っぱが顔に当たってしまいました。これで通算二百七十五勝百二敗です。次は必ず避けてみせます。
何はともあれ緩やかな時が流れています。この前時代的な雰囲気の場所は考えうる限り最良の地でありました。
ありましたと、過去形にしたのにも訳があります。
硝子扉を開ける音、来た、あの人です。私の根城を土足で踏みにじり、あまつさえ、空きあらばもふもふを企てるあの女さんの甘い香を炊いた匂い。
「おはよっす」
「おはよう、志乃ちゃん」
四十五度の礼をびしっと決め――そこは褒められるところではありますが――それに余りある獰悪さを兼ねていることを忘れてはなりません。切れ長の目を細め、舌なめずりをしているじゃあありませんか。あれは得物を狙う目です。およそ人間が飼い猫にしていい目ではありません。手をわしわしさせながら私の元へ近づいてきました。捕まるわけにはいきません。あの籠手に捕まったが最後、空をぶんぶんと回され目が周り、息ができなくなるほど両の手を這い合わせてくるのです。
「なんで逃げるっすかー」
「だって志乃さん。春香を見てるときの目つき、いつもこんな感じだよ」
制服に身を包んだご主人が目尻を上に引っ張りながら階段を降りてきました。そんな状況説明はよいからこの危機的状況をなんとかして欲しいです。またたびならいくらでも分けてあげるから。いや、やっぱりちょっとだけ。
「うー、だって、こんなに可愛かったらいっぱいナデナデしたいじゃないっすか! 愛でたいじゃないっすか! 癒やされたいじゃないっすか!」
志乃さんが迫ります。私も一歩また一歩と後ろに下がります。がたんと後ろ足が行き止まりの壁にぶつかってしまいました。もう逃げ場はありません。お助けを、手をぱちんと合わせて願います。
私の目前に悪魔の手が迫ったそのときでした。からんからんと扉を開ける音が聴こえます。志乃さんは静止しました。
「いらっしゃいませ」
マスターさんが声をかけた先には、開店前にたまにやってくる近所のおばあちゃんが佇んでいました。天地開闢のごとき荘厳さを持って出で立つその姿、あなたが天帝であらせられますか。床にひれ伏し感謝を述べることにします。傍から見たら「にゃあぁ」と言っているようにしか見えないとしても。
「きょうも賑やかですわね」
おほほほほと白いレースのアームウォーマーから慎ましやかに伸びる御手で口を塞ぎ、微笑んでおられます。
天帝の御前でありますよ、控えなさい! 私は志乃さんの膝に猫パンチをお見舞して、天帝のお膝元に鎮座しました。これにて一見落着です。
ご主人はといえば、マスターさんから手渡されたマグカップを手にカウンターでひとりのんびりしていました。どうせ、きょうもきょうとて平和だなぁとか思っているに違いありません。
全く持ってあきれるご主人であります。
まぁそんなご主人のことを、好いてはいるのだけれども。
「お疲れ様」
「お疲れ様です。いくよ、春香」
サイドバッグの中に飛び込み、頭だけ外に出します。
硝子扉を抜けると、家々が夕暮れに染まっていました。海岸が見渡せる高台を歩き出すと、これから家へと帰っていくホワイトカラーさんや、買い物袋を提げた主婦さんたちがまばらに点在しています。時折、海鮮が詰まった味噌汁の香りや、スパイスから作られたカレーの刺激的な香りが鼻をつつきました。ぐうううううとご主人のお腹の虫が鳴ります。
「一通り必要なものを揃えるついでに、夕飯をたべようか」
「にゃぁあ」
バッグから諸手を出して万歳します。意図は伝わったようで、ご主人は須野原ショッピングモールへと歩き始めました。
高台の住宅街を抜け、田園風景を抜けた先に、須野原ショッピングモールがその姿を現しました。須野原町の中心部に屹立するここは食料品から、電化製品、衣料品だけでなく、観覧車や、メリーゴーランドといった行楽園も兼ね備えている複合型の施設です。夕暮れ時に訪れたため、付近の須野原大学の学生さんや、これから夕食を取るであろう家族さんたちで溢れていました。
ご主人は群衆を縫うようにして突き進むと、まずは女の子向けの衣服を取り扱っている店舗が並ぶ三階へと向かいました。狙い通りすぎて思わずにっしっしと笑ってしまいそうになりましたが、口を抑えて控えます。
「どのお店が良い?」
ご主人は最初に蛍光色が幾重にも塗り重ねられていた服装が並ぶ店舗の前で立ち止まりました。視界がぼんやりしていてはっきりと柄が分からないので、ご主人の腕をバシバシ叩き、展示されている服の方へ工事現場で働いてる守り人みたいに腕をふりふりして誘導します。鼻先が服に擦れるくらいまで近づけさせ「にゃぁあ」と言って止めてもらいました。じっと服を眺めてみますが、どうも性に合いません。頭を左右に振ります。
次に、単色系を重ねているカジュアルなお店の前に立ち止まりました。今度は予め服の前に寄せてくれました。賢しい人は好きです。しかしながら、これもしっくりきません。頭を左右に振ります。
セレブ系も、お姉系もきれい系のお店でも頭を横に振り続け、半ば私が諦めかけていたときでした。可愛らしい小物やフリルが付いている衣類をショーケースに飾っていた店舗の前には、鈴懸の樹の吐息が明星を立ち上る予感を孕んだ光が放たれているではありませんか。私は前足を万歳させて頭を上下に振りました。
オーデコロンの香りがする店の中へと入ると、店員さんが寄ってきました。
「どういったものをお探しでしょうか?」
「いえ、見ているだけなので」
店員さんが訝しげな表情を浮かべていましたが、他のお客さんの元へと声を掛けに行きました。
ご主人は私の眼鏡に適った商品を手にとっては買い物カゴの中に入れます。一週間分の特製セットアップが完成したところで、バックから飛び出ると、試着室の前で「にゃぁああ」と言いました。
ご主人は周りを見渡し人がいないことを確認すると、服とバッグを試着室の中に置いてカーテンを閉めました。人に見られないうちに着替えなければ、がさごそがさごそと素早く衣服を身につけます。
「ご主人、ご主人」
ご主人はカーテンを開けて頭だけ中に入れてきました。
「どうですか?」
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