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猫宮春香は虹色の夢を見る 第2話

 ご主人の顔は俗にいう塩顔というやつです。雪が振り重なっているのではないかと錯覚するほどの白さを放つ肌、高い鼻筋のたもとに根をおろす切れ長の双眸、細い輪郭、どれをとっても鋭さを伴っており、はじめて見たときは、鋭利な刃物で喉元を突きつけられたかのような恐怖を感じたものでしたが、実際のところは、とんでもなく楽観的で温厚、通行人に飲み物ををぶちまけられても笑顔で対応するし、人の悪口というものを聞いたこともないし、怒ったところをみたこともありません。それでいて馬鹿がつくほどむっつりさんなのです。すーぐ女の人の姿を目で追っては、至極真面目そうな顔をしつつ、その眼を血走らせています。困ったものですよ。という具合で、私にとっては安心できる居場所を提供してくれる人間な一方で、単なる性欲に素直な人間だなぁと感じる節もあります。

 覚醒の符牒でしょうか、ご主人のまぶたがぴくぴくと痙攣し始めました。しばらくすると、両まぶたがゆるやかに持ち上がり、あちらこちらに律動していた瞳の動きをぴたりと止め、私を見つめました。どうやら私の存在に気づいたらしいです。

 ご主人の顔に両手を添えてじっと見つめる――いつもの目覚めの挨拶――をします。ふっふっふ、これできょうも元気に起きてくれるに違いありません。

 ご主人はというと、眠気眼を擦り、再び布団の中に潜ってしまいました。

「朝ですよー」

 掛け布団をめくり上げると、ご主人はこれまた切れ長な耳を塞いでわざとらしく寝息を立て始めました。それでも懸命に「ご主人ー」「遅刻しちゃいますよー」声を掛け続けます。

 観念したのか、ご主人は布団から這い出ると、私を無視して洗面台へと歩き出しました。私もその後を追うように、今度はしっかり、バランスを意識してと、まさか二足歩行で歩く鍛錬がここにきて役立つとは思いもよりませんでした。生きていると何があるか分かりませんね。

 ゆっくり、かつとごも傷つけないようにご主人を追い越し、振り向くと、両腕を大きく左右にひろげて立ちはだかります。ご主人が右に抜けようとすれば左に、その逆も同じように、サッカーのゴールキーパーよろしく、軽快なフットワークで行手を塞ぎます。

 ご主人が立ち止まりました。やっと正面切って話してくれる。そう思ったのもつかの間、私の猫耳を両手でつまむと指先でこねくり回し始めました。痛くはないのですが、なんともくすぐったいです。次いで上に勢い良く引っ張り上げました。耳介がぴーんと伸び、限界まで伸びたら私の頭が持ち上がりました。

 ご主人の腕を涙目ながらばしばし叩き、

「離してくださいよぉ……」

 背伸びをして猫耳の伸縮を最小限に抑えます。

「本物の耳だと思わなくて……ごめんね」

 ご主人は手を離すと、痛みでうずくまっていた私の頭を優しく撫でました。絶対に許してなるものか、キッと睨みつけてはみるものの、ぽわぽわと体全体が温まるような心地の良い動きにうっとりしてきました。

 ご主人はそんな私を横目に、ずいぶん間の抜けた調子で尋ねてきました。

「変なことを聞くようだけど、春香?」

「そうですよ!」

 胸を張って高らかに宣言します。

 ご主人は頭を抱えて嘆息しました。むしろ嘆息したいのは私の方であるということは言わないでおきましょう。そうしたくなる気持ちも分からなくないからです。

 何故人間に変化したのか。これを説明するのであれば、沸き立つ混沌の中に、時間的一次元性を有する言語で持って明確化しなければなりません。いわばこの遊離根として現れた問題に全力を持って答責しようものなら、痛切な感覚を抱くに決まっております。例えて言うなら、じゅうたんの模様みたいに、魚の模様かと思えば、それがいつの間にか鳥の模様へと、花の模様へと、見る度に移ろいゆくようなあの感じを受けるでしょう。

 頼みます。その問だけはご勘弁を。手をぱちんと叩いて祈ります。

「って、そろそろ準備しなきゃ」

 ご主人は、短く、重低音を効かせた声で私を救ってくれました。もしかしたら、私の願いが三度目にして、やっと届いてくれたのかも知れません。いや、ご主人のことですから、特に何も考えてはいないのかも。

 ご主人はしわくちゃになった衣服の山から慣れた手つきで適当に見つくろうと、身につけ始めます。白いワイシャツに、チノパン。着替え終えると洗面台で身支度を整え、玄関へと向かいます。私もそれにいつものように付いていきます。猫のときと変わらぬ行動原理ではありましたが、どうやらご主人にとってはばつが悪いようです。私の体を舐めるように見つめてきました。途端に頭の先から足先まで木っ端微塵になってしまいそうな感情が発露します。これが世に言う恥ずかしいというものなのかどうかは定かではありませんが、頬が上気していくのは不可避でした。

「その恰好だとまずいから、一旦猫に戻れる?」

 優しく、諭すような感じでご主人は言いました。

 どうすればよいのかしら。とりあえず、変化したときと同じように頭をごしごしと擦ってみると、ぽんっていう擬音が当てはまるような感じで慣れ親しんだ視線の高さに戻りました。体を見渡すと、立派な白銀の毛並みが生えております。両腕、両足を動かしてみますが問題ありません。ぴんぴん動きます。

 しかしながら、猫の姿というのは窮屈なものです。一歩一歩の歩幅は小さいし、なにより、真の意味でご主人の隣に寄り添えません。これなら人間の姿で生活したほうがラクチンではありませんか。

 一旦頭をごしごしすると、

「猫の姿は窮屈ですよ……」

 頬をぷうと膨らませつつ、再び頭をごしごししました。

 ご主人のこと、仕事帰りに人間の衣服を買ってくれるに違いありません。いつものようにサイドバックの中に飛び込むと、頭だけ出してご主人を見上げます。

「じゃあ、いこっか」

「にゃぁあ」

 そして私は、きょうも日がな一日をご主人と生きるのです。

 春が香っています。桜や菜の花、土の湿った香りや、甘い蜜の香りは四重奏となって通勤のひと時を彩っておりました。

 ふあああ、眠い。どうも春の暖かさは眠気を催すみたいです。別段寝るのが好きではありませんが、睡魔には勝てません。サイドバッグの中に頭を引っ込めます。

 さらばご主人、寝ることにしました。

「おはようございます。マスター」

「おはよう、薫くん」

 年を経て熟成された薫香のやすらぐ匂いに包まれております。それすなわち、我が第二の根城である喫茶店<<キャットシー>>に到着したということでしょう。目を開けると案の定、私を掻き抱いていたのはこの店のマスターさん、ご主人のご主人とはややこしいのですが、紛れもなく喫茶店<<キャットシー>>の店主であります。髪交じりの頭髪は綺麗に後ろに掻き上げられ、顎鬚はきっちりと整えられており、無駄な贅肉は一切ついておらず、その一挙手一投足は全て丸みを帯びています。

 私より所作が猫っぽいのは気のせいではないでしょう。確か、日本舞踊を嗜んでいるとかいないとか。

 胸の中で私の頭をわしゃわしゃします。喫茶店に来る日には必ず行われる定常業務であり、これがないと、どうも一日が始まった気がしません。

「さて仕事に戻らないと」

 マスターさんはご主人に私を手渡すと、二三度手をぱちんと払り、硝子扉を開けて店の中へと入っていきました。私とご主人もそれに続きます。

「着替えてきます」



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