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猫宮春香は虹色の夢を見る 第1話

 ご主人に飼われてはや十余年、はてと困りました。今までに経験したことのない類のむず痒さが全身を襲っております。新手のノミやシラミがいるわけでもなし、かといい、花粉のじんと滲む痒さとも違います。体のありとあらゆるところを隈なく掻いてみますが、一向に収まる気配がありません。

 枕元の猫じゃらしを掻いて気でも紛らわせてみますが、腕をぶんぶんと振る度に痛みを伴い始めて、紛れるどころか余計に状況が悪化しております。二次災害というべきでしょうか、動いたせいかのどが渇いてきたので水受け皿のあるリビングに向かおうと四肢を力ませますが、てんで気怠い。それならばと水を飲むのを諦め、布団の中でじっとしていればそのうち痛みが引いてくれるかもと淡い期待を胸に懐き、暗闇の中に潜り込みます。さながら歴戦の狙撃兵みたいに物音一つ立てず佇んでおりますが、それでも痛みは収まってくれません。それにしても、はぁはぁ、苦しい。だんだん息が詰まってきました。手足が痺れ、動かすこともままなりません。

 やがて沸騰したての熱湯に放り込まれたような尋常ではない熱量の奔流が、丹田から胸、首、顔そして頭頂へと流れました。蚊の大群に頭を執拗に噛まれでもしたのかというくらい、ものすごく頭が痒さを訴え始めます。

 辛抱なりません。いかりをぶら下げられているかのような鈍重な両手をなんとか持ち上げ、頭上をごしごしと掻きました。

 すると、先程までの痒みはどこえやら、風船を針で突いてぱぁんと破裂させたみたいに一気に痒みが収まりました。もう大丈夫なようです。

 ふうとため息をついて布団に頭を下ろします。しかし、頭は空を切り、本来あるべき布団ではなく畳の上へずごんと衝突しました。

 あいたたた、脳みそが掻き混ぜられたような痛みのあまり、頭を押さえます。

 そこで私は妙な違和感を覚えました。手の先がいつも以上にもふりとした何かを捉えております。頭を上げ、手を見やると、指と指の間がひどく空いており、うんと力むと、指の一本一本を曲げたり伸ばしたりできるではありませんか。

 もしやと思い上体を上げて全身を見渡すと、白銀の艷やかなな毛並みはどこえやら、つるりとした体躯はほんの僅かに胸の辺りが膨らんでおります。

 ・・・・・・

 ・・・

 ・

 手をぽんっと打ちます。

 やっぱり、私は、人間になったみたいです。

「ご主人、ご主人」

 聞きなれない声がします。どうやら自身の声のよう。大層しわがれた声は隣に住む呑んべぇの女家主さんに近しいものがあるので少々しゃくではありますが、そのような瑣末なことを気にしている場合でもないでしょう。一緒の布団で寝ていたご主人の顔を叩く。ひたすら叩く。びしばしと結構強めに平手打ちしているのですが、仮死状態になってるのではないかと疑いたくなるくらいに眉一つ動かしません。

 無反応を決め込むとはまったくもっていい度胸です。未曾有の事態がいま目の前、たった半歩近づいただけで接吻できる距離で起きているというのにも関わらず、にも関わらずです。薄皮一枚、だけれど永遠とも言える距離を隔てたかのように、気持ちよさそうによだれを垂らしてグースカ寝ているではありませんか。

 何だか無性にむかっ腹が立ってきたので、枕元に置いてあった置き時計を手に取り、アラームの設定時間を三十分早くしてご主人の耳元に置きます。にっしっし、ご主人のあわてふためく姿が容易に想像できますよ。三、二、一、くらえ、騒音爆撃。ちりりりりんと耳をつんざくような音が部屋中に響き渡ります。どうだ、踊り狂いなさいです。

 しかし、一分、二分、時々刻々とときは過ぎていきますが全然動く気配がありません。どうやらご主人は突拍子もない行動に狼狽えるほど甘くはないようです。さすが、毎日水の代わりに無糖のコーヒーを飲んでいるだけはあります。たまには、砂糖を入れて飲まないと胃を壊してしまう……とまぁ、脱線してしまいましたが、大事なことを忘れておりました。ご主人は一度寝たら起きる時間になるまで冬眠中の動物が如く微動だにしないのでした。

 それとは対照的にアラームはけたたましく鳴り続け、地団駄を踏んでおります。前々から気に障っていましたが、煩くてかないません。だまらっしゃい。びしっと鋭い手刀を見舞ったら、ばきっと嫌な音と共に針が動かなくなってしまいました。

「あわわわわ」

 ご主人が大事にしていた時計を壊してしまいました。どうしましょう。いままでご主人に怒られたことはありませんが、こればっかりは何をされるかわかりません。というのも、遠方にお出かけの際には必ず肌身離さず持っていかれる時計ですよ。それが今や形無し、画面には見るも無残なヒビが入り、辺りには硝子の破片が散らばっております。

 この状況を打破すべく、思考をめぐらせます。

 どこかに隠しましょうか、いや、隠したところで、砂金採り名人としてどこぞの施設で免許皆伝を授かっているほど貴重なものを掘り当てるのが得意なご主人のこと、ここほれワンワンと鳴く犬なみの嗅覚をもってして探し当てるに違いありません。

——それなら、今のうちに妥当な言い訳を考えるのはどうでしょうか。ご主人が突然、夢遊病者みたいに出歩いたかと思えば帰りしなに時計を踏んで壊したですよ、へっへっへ。——いや、ご主人に嘘をつくというのは心苦しいものがあります。今まで大事に育ててもらっている恩義もあるのです。

 考えに考えを浮かばせた結果よい案が全く浮かんでこなかったので、これはもう最終手段、天に祈るしかありません。というより、すがるしかありません。

 神様、仏様、猫神様、この時計をどうか直してください。

 目を瞑り、手をぱちんと叩いて祈ります。

 恐る恐る目をあけて時計を見ますが無反応、まあ、そんな上手いこといったら苦労しないですよね。素直に自首するしかないようです。まったく、なんて弱々しいつくりでできてるですか。

 破片の一つ一つを、ご主人が寝ている間に片付けようとして立ちあがろうとしましたが、猫の時と人間のバランス感覚が全然違うので、後ろに思い切り倒れてしまいました。

「いったぁ」

 ご主人の洋服棚に後頭部を強く打ち付け、じんわりとした痛みが広がってきました。それと同時に、パリンと嫌な音が聞こえてきます。その音の方を見下ろすと、ものの見事に写真立ての硝子が割れているではないですか。歯をぐっと噛み締めぶつかった痛みに耐えつつ、これ以上行動してものを壊すのも、痛い思いをするのも嫌なので、ご主人の顔をじっと見つめることにします。



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