咆哮が、地表を舐め尽くす。
翼動が、大気を揺るがす。
あらゆる所作が、地上に混沌を生み出す。
厳かに、粛々と、それでいてノイジーに。
有史以来積み重なってきた文明が、できそこないの自動生成プログラムによりもたらされたような馬鹿げた無慈悲さに、蹂躙される。
意図も容易く崩壊させられる眼前の様は滑稽だった。私が暮らしてきた世界はこんなに簡単に切り崩されるのかと思うと、笑いすら込み上げてくる。
天は紅、地は灰。
天地開闢のごとく顕現した全貌は、頭上に天使の輪、両肩に白銀の翼、そして、艶やかな体躯は一切の穢れを知らなかった。その威光に、神の存在を信じていなかった私でさえ、否応なしにその存在を認めざるを得ない。
今なら「希望を持たぬ者は、絶望することもない」って意味が理解できる気がする。
この世のものでは到底想像がつかない未知の生物。この世界の理から外れた胡乱な存在。それに呑まれれば、循環の輪から疎外され永遠と終末をたどることになり、崖から落とされたバスの中に閉じ込められたように二度と元の場所へ戻ることはできなくなる。
圧倒的な絶望。世界の終焉。ただ、その事実を前に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった昔とは違う。それは私の、いや、私たち人類に残された最後の希望。
——わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。——
両の手でネックレスを握ると、祝詞を唱える。
——仄暗い。全ては灰色。
——はれやか。何者にも、犯されない。
——すこやか。何人にも、犯させない。
限りない灰色の世界<<アンリミテッド・サイレンス>>が私の世界を構成する。すべての音が消え、数多の色が抜け落ちた荒涼たる更地にただ一人、だけど、恐怖を感じることはなかった。
重力意志は、どんな脅威にも、どんな絶望でも、屈したりはしないから、絶対に。
だから——
——さようなら
…
雲一つない空の下、太陽が天高く地を照らし、地平線の先まで朱色<<ヴァーミリオン>>に染まった草原を、ママとわたしは手を取り合って歩いていた。ときおり吹き付ける乾いた風は、草原をゆるやかに揺らし、ママの黒髪からわたしの大好きな香りを漂わせる。
地平線の彼方まで永遠と続くようなみちのりを二人で歩く。この時がずっと続けばいいのに。そうすれば、ママといっぱい一緒にいられるのに。
私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれているママは、身につけていたシルバーネックレスをぎゅっと押さえながら歌い始めた。その歌——聞いたことがあるようで、それでいて聞いたことがないような——に合わせてわたしも歌うと、このままどこかに飛んでいけてしまうんじゃないかって言うくらい、軽やかにステップを踏めた。
「もしよ、もし、万が一、そんなことはないけど」
ママは突然立ち止まると、浮遊感に包まれていたわたしの体を強く抱きしめた。
「ママ、苦しいよ」
「これはあなたに預けておくわね……私がいなくなってもいいように」
「いなくなっちゃうの?」
ママがわたしから離れてしまうのを考えた途端、涙があふれてきてしまった。そのせいで、ママがポケットからゆっくりとていねいに取り出していたシルバーネックレスがかすんで見える。
焦点を合わせようと必死に両手でまぶたをこするけど、全然涙は止まってくれない。こんなんじゃ久々の二人っきりの時間が涙でぬれた思い出になってしまうのに、行き場のない悲しみがにじみ出るばかりだった。
「ごめん……ごめんね」
ママはわたしをさらにぎゅっと抱きしめると、背中を優しくさすってくれた。すると、わたしの涙はいとも簡単に引っ込み始めた。
ママはわたしからゆっくりと身を離すと、シルバーネックレス——ねじれたドーナッツ型のアクセサリーが先端に備え付けられた——を首にかけてくれた。
「なにこれ?」
「これはね、キューティーって言うの。かわいいあなたにぴったりな名前でしょ?」
「かわいくないもん」
「ふふっ、そんなんことないわよ」
わたしの頭を優しくなでるママの表情は、わたしにとって掛け替えのない唯一無二の宝物だった。おばあちゃんからもらったクジラのミニチュアがペン先についたボールペンよりも、友達からもらったオレンジ色のシュシュよりも、他のどんなプレゼントよりも輝いて見えた。
「どんなことがあっても、これだけは絶対に手放しちゃダメよ」
ママはキューティーを強く握ると、紅い瞳で私をじっと見つめた。
「どうして?」
「これがあれば、いつかきっと、貴方は見つけ出せるから」
ママはよくわからないことを言うと、ニコッと笑った。
「ママとお揃いだもん。ぜったい、ぜーったい、無くさないよ」
「いい子ね。ならもう一つ、私のお願いを聞いてくれる?」
「うん!」
「ママと歌ったこの歌は、ぜったい、ぜーったいに、忘れちゃダメよ……もし困ったことがあっても、あなたのことを必ず守ってくれるから。わかった?」
「わかった!」
「いい子ね。さすが私の自慢の娘」
「えっへっへ」
——
瞼を開けると、薄闇に彩られたモルタルの無機質な質感<<テクスチャ>>で視界が埋め尽くされた。
見慣れた天井、それに、太陽はまだ登ってないみたい。
部屋の空気を換気するために立ちあがろうとしたら、心臓がドクンドクンと強く打ち始めた。左手で心臓を強く押さえつけながら、横になって深呼吸を一つ入れる。
何か随分懐かしい夢を見ていたような。徐々にクリアになっていく思考を総動員してさっきまで見たであろう夢を思い出そうとするけど、どうしてもおぼろげな断片しか思い出せない。
しばらく安静にしているといくらか身体の自由が効くようになり、右手を額にかざすと手の甲が汗でびっしょりと濡れた。ベッドから起きあがると、シーツも汗でびっしょりになっている。
不快感からこぼれ落ちたため息を漏らし、汗まみれの衣服を投げ捨てると、首にさげていたアクセサリーがジャラジャラと音を立てた。
隣で寝ていたルルゥを見るとスースーと寝息を立てていたので、足音を立てないようにゆっくりとガラス窓の前へ立ち、外側へと開け放つ。すると、汗の芳香でじめっとしていた空気がゆるやかに換気されていった。
窓際にもたれて外を眺めると、人の気配の薄れた街路を満天の星々が照らし、身体を撫でる心地よい風が火照った体温を下げる。
くしゅん。これ以上身体を冷やさないように窓辺から翻ると、ルルゥがプレゼントしてくれたもこもこのアウターを羽織り、古本の詰まった棚の上に置いてあるタブレットのスリープを解除すると、フォトギャラリーを起動した。そこには、ママの優しげな表情があいも変わらず切り取られている。美しくも、儚げで、触れたら壊れてしまいそうな思い出のまま、だけど、デジタルデータのおかげで姿形だけは不変。
そんないつも通りの表情に安心したのか、心臓は規則的に動き始めたので、忍び寄ってくる眠気に身を任せることにした。
「リ、リィ、リリィ、リリィ!」
「え?」
「え? って、もぅ」
朝食代わりのグラノーラを食べている時だった。
私の対面に座っているルルゥはちょこっと頭を下げながら私の顔をじっと見つめた。ルルゥと身長差が頭一個分あるので必然的にこうなってしまう。
「いつにもましてぼーっとしてるけど、何かあった?」
「いや、べつに」
ルルゥは姿勢をびしっと正すと、両腕を前で組んだ。
「お姉ちゃんはねぇ、そうやっていっつもいっつも一人で抱え込んで、」
「はいはい」
私が頭を前に振って、話を聞いているふりをしていると、
<<緊急警報発令、緊急警報発令。当該地区にて重力砂が派生中>>
けたたましい警告音がタブレットから響き渡る。机の上に置いていたタブレットを見ると、解放の瞳<<エクソダス>>からの警告がプッシュ通知されていた。お知らせを開くと、私たちの居住区<<アーデンフロア>>が赤くマークされており、衛生軌道上から補足された重力砂の映像がリアルタイムで放映されている。
「この辺じゃん、早く逃げないと」
「ちょ、ちょっと待ってって」
私はまだまだ話し足りなげなルルゥの手を取ると、家を飛び出した。 寂れた瓦礫の山々を飛び越えて、ひた走る。慣れ親しんだ警告音。しかして、人的被害は限りなくゼロ。ゆえに、ただ話を切り上げたかったために走り出したんだけど、何かいやな予感がする。
その予感は的中し、乾いた地に巻き起こった竜巻みたいなもので進行方向は塞がっていた。
細かい金色の粒子が、目前で踊り狂っている。
重力砂。別にこれ自体はそんなに意味があるものじゃない。通り抜けようと思えば簡単に通り抜けることは可能だから。だけど、その発生から誘発される残滓に限って言えば、ことは簡単に収まるものではなかった。
重力砂が完全に消失すると、入れ替わるように地面から無数の蟻のような何かが湧き出て、住居の壁をしっちゃかめっちゃかに喰らい始める。不規則に、無秩序に、それは紛れもなく数の暴力だった。
「A-iiなら別に、っ!」
息を呑んだ先には、一番この場にいてはならない存在がいた。
「A-i」
ルルゥの呟き。その声に呼応するかのように黒いシルエットの人型は、
ˆåøƒåˆƒåπˆøƒåˆåƒåˆåøƒåˆƒåπˆøƒåˆåƒå
何か言葉を発しているんだろうけど、この世の言語では到底解析不可能な声を発しながら近づいてくる。
「やばい……やばい!……やばい!!」
ルルゥの手をとって来た道をひた走る。A-iiは住居荒らしに徹しているけど、A-iは私たちに向かって一直線にダッシュしてきた。
『もし仮にA-iに出逢ったとしたら迷わず逃げろ、何が何でも逃げろ。奴らにもA-iiと同じように活動限界があるからな。でも、どうしても死にたいっ時は迷わず突っ込め』
担当教師のいつものジョークが恨めしい。話を聞いている分には他人事のように笑えたけど、いざその場に直面すると笑えるものも笑えなくなる。
「お姉ちゃ、はぁはぁ、もう、走れ、ない」
「もう少しでって、っもう」
距離を稼ぐために狭い路地をくねくねと曲がっていたけど、その先は袋小路になっていた。
A-iとの距離が加速度的に近づく。
「お姉、ちゃん」
ルルゥが私の体をぎゅっと抱きしめた。その身体はぷるぷると震えている。私だって、正直、目の前に差し迫った死を前に屹立できるほど強くはない。身体中に沸き起こってくる震えを表に出さないように、ルルゥに感じ取られないようにする。だってそれがお姉ちゃんとしての務めだから。大丈夫、私は大丈夫と自分に言い聞かせるようにぼそぼそと暗示をかけるけど、怖いものはやっぱり怖い。でも、私にとって大事な家族をこれ以上失うことの方がもっと怖かった。
この世に生を受けて十六年、長いようで光の速さで過ぎ去っていった日々——ママと、そして妹と二人きりで過ごした——が走馬灯のように駆け巡る。
——「……もし困ったことがあっても、必ずあなたのことを守ってくれる。わかった?」
中でも、ママと過ごした遠い記憶の解像度が急激に上がった。忙殺される日々のおもりをつけられ、忘却の彼方へと置き去りにされていたママとの懐かしい記憶に、瞳から一筋の涙がつーっと流れ落ち、唇の端に吸い込まれる あまりのしょっぱさに顔をしかめながら、私は首にぶら下げていた捻れたドーナッツ型のアクセサリーに触れる。
『助けて、ママ』
頭の中でママから教えてもらった祝詞を唱えると、視界を埋め尽くすほどの紅い閃光が、キューティーを中心とした同心円状にはじけ、空間全体にゆらゆらと焔を形作った。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
数多の焔が、私の周りでキャンプファイアーしているみたいに取り囲む。
私は目をぎゅっとつぶって、両手でキューティーをさらに力強く握った。
刹那、焔の大群が私の中に入っていく確かな感覚——ほのかな暖かさ、それと浮遊感——に包まれた。
瞼を持ち上げると、私は、私だけしかいない静謐な空間の中で、まるで海の上でたゆたうみたいに浮かんでいた。全身がぬるま湯に長時間つかっているかのように、からだのだるさと、眠気が襲ってくる。このまま眠れたら楽になれるのだろうか。そんな思いが、胸の辺りを去来した。
私は両頬を思い切り叩くと、気を引き締める。
ルルゥの姉として生きることを誓った制約——血のつながりを超えた先に見出した——と、私に残された唯一の光を守るために。
私は気だるい体をなんとか動かし、空間の先に開けた光の中へと潜った。
意識が戻ると、私はA-iの前に立ち塞がっていた。
現実世界にしてコンマ何秒にも満たない時間だったけど、私の世界は確かに変化していた。
「お姉……ちゃん?」
ルルゥが訝しげな顔でこちらを見上げた。それもそうだ、私は本当に実態が変わっているのだから。
「しっかり捕まってなさい」
ルルゥを背中に携え、腰先まで伸び切った赤髪——ショートカットの黒髪だった筈の——を両手で弾く。すると、私の視界、いや、私たちの視界は反転した。
「え、えっ、えええええ」
頭の先を地面に向けながら、ルルゥは絶叫した。
「黙ってないと、舌、噛むわよ」
そして私は、両手で大地を蹴った。
A-iは空に落っこちている私たちを傍目に、空気中に霧散し、跡形もなく消失した。きっと、活動時間の限界を迎えたのだろう。肌を打ち付ける大気の壁を破りつつルルゥの横顔を見ると、その瞳はさんさんと輝いていた。
「すごい、すごいよ、お姉ちゃん」
<<アーデンフロア>>が視界に収まる。全体の9割が瓦礫の山で、崩壊した箇所からはところどころ旧来の名残である透き通った水が流れ、キラキラと陽光を反射していた。崩れかけの水没都市とも銘打たれてもいるこの地区は、元々、豊かな大地と、自然を育んだ観光地だったけど、今やその姿は重力砂のおかげで形なしだ。でも、私はこの地区のことが——たとえどんな姿に変わり果てようとも——大好きだ。大地の湿った香りに、自然の生み出す生命力、そして何より、ママが愛した場所だから。
「そろそろ戻ろっか」
「あとちょっとだけ、ここにいたい」
私は小さく頷くと、空中停止している自分の姿を頭の中で想像した。
大気の壁を打ち破る感覚がなくなると、私たちはこの世で生きとし生けるものの中で最も高い座標で静止した。全てがいつもより小さく、時間がスローに進んでいる感覚が湧き起こる。
強く拍動を始めた心臓の音をバックに、目前に広がる稜線のどこかにいるだろうママの無事を願った。
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