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猫宮春香は虹色の夢を見る 第8話

 ご主人の胸元を人差し指でつーっとなぞってるじゃありませんか。ワイシャツの胸元から、紫色のブラジャーがちらちら見えています。ご主人はといえば、なすがままになっています、むしろ、心なしか喜んでいるような。

 何ですか、おっぱいですか。ご主人はおっぱいが大きい人の方がいいのですか。私だって成長すれば大きくなるですよ! 多分、きっと……っ、てそんなことを考えている場合ではありませんでした。

「エッチなことはだめです!」

 ご主人と大家さんの間に割って入って、いけないムードを壊します。そういうことをしていいのは私だけ……こほん。

「ん、薫君の……妹さん?」

 大家さんはちょっとしゃがむと私を見つめました。

「そうなんです。しばらくこっちで預かることになったので」

 ご主人がいい感じの理由付けをしてくれました。

「じゃあ、こっちの中学?」

「そうなんです」

「ふーん」

 さも興味なさげに、大家さんはお花の水やりを再開しました。

「これから出かけるなら、ついでに酒を買ってきて」

 大家さんは水の元栓を閉めると、ご主人へ一万円札を手渡します。

「いつもの缶ビールのやつで?」

「そうそう、プレミアムなやつね」

「了解です」

 ご主人は一万円をポケットの中に突っ込むと、私の手を引っ張りました。

「行ってきます」

「気をつけてねー」

 大家さんは手をひらひらさせると、駐車場に置いてあった缶ビールに向けて、テニスボールを転して、ボーリングのピンを倒すみたいな遊びを始めていました。ご主人はその様子を、鼻の下を伸ばしに伸ばしてブラジルまでぶち抜くのも辞さないくらい熱い視線で眺めていました。

「なーに、でれでれしてるですか」

 じとーっとした目つきでご主人を見ると、

「これは失礼」

 頭を掻きながら歩き始めました。

「それはそうと、学校の準備も一緒にしようか」

 学校ですと! なんと甘美な響き。一度は行ってみたいと思っていましたが、まさか通えるようになるなんて、夢にも思いませんでした。人生何があるか、本当にわかりませんですよ。

 沿岸部へと続く緩やかな坂を下っていきます。歩道には満開の桜並木があり、一陣の風が吹く度に、その花びらがふわりふわりと顔に当たっては、申し訳無さそうにどこかに飛んで消えていきます。所々に置かれていた木製のベンチの上では、桜を酒の盃に酌み交わしているご年配の方々が多く見受けられました。演歌を口ずさんでおられたり、文庫本を片手に読書をされている方がいたりと、兎にも角にも、須野原町の中心部とは違って、時間の進みが幾分遅れているような錯覚を受けます。

 時間に取り残された桜並木を抜け、沿岸部の平地に辿り着くと、途端に人の波がうねりを上げます。『須野原商店街』と書かれたゲートの前には、異国情緒あふれる人だかりが出来ていました。休日でもあるきょうは、いつも以上に熱気を帯びています。

 商店街のゲートをくぐると、古風な門構えの商店が迎えてくれます。全体的に白を基調としたお店の間口には、手ぬぐいからハンカチなどの和雑貨や、ガラス細工の器、アートギャラリーなどを意気揚々と並べている店舗の他にも、食べ歩きにおすすめな練り物だとか、揚げ物だとかを販売しているお店もあります。食べ物を見ていると何故こうもお腹が空いてくるのでしょうか。不思議でなりません。

 海岸へ向けて商店街をしばらく進んでいきます。

「ちょっと休憩しよっか」

 商店街の中央に作られた広場に着くと、空いているベンチに二人で並んで座りました。現在の時刻は十二時、広場の柱時計からミニチュアの楽器隊が出てきて知らせています。 どこからともなく猫さんたちが足元に集まってきました。。白くてすらっとした猫さんや茶トラさん等々、これまた色んな種類の猫さんたちが代わる代わる靴に頭をこすり付けていました。その度に、ふんわりと甘い香りが漂ってきます。

 ご主人はその中の一匹の黒猫さんを抱きしめると私に尋ねました。

「春香みたいな娘って、他にもいたりするの?」

「うーん……直接会ったことはないので分からないです」

「そうなんだ」

 黒猫さんの頭をなでなでして、

「もしかすれば、この中に春香みたいな娘がいるかもしれないね」

「かもしれません」

 地面にゆっくりと下ろしました。黒猫さん御一行は、それまた他のベンチに移動していました。

「そろそろお昼ごはんを食べに行こうか」

「はいです!」

 商店街のメイン通りではなく、脇の舗装されていない砂利通路に入り、右に左とこれまた猫さん用に誂えたかのような細い通路をひたすすみ、やっとの思いで、裏路地にひっそりと佇んでいる喫茶店にたどり着きました。ぱっと見ただけでは喫茶店というより、ごくありふれた民家という風貌であるので、知る人ぞ知るという感じです。

 店内に入ると、木の柔らかな匂いとともに、薄化粧を施した妙齢の女性店員さんが迎えてくれました。艷やかな金色ショートボブに鋭い目元、淡い色のグロース、出るとこは出ていて、引っ込むところは出ている。ご主人好みの体躯、さながら、キャットウォークから飛び出してきたモデルさんのようです。っく。

「いらっしゃいませ」

 店員さんの案内で窓際の木製のテーブルに腰を据えます。

 店内は程よく空調が効いていて、直接風が肌に当たらないようにという配慮からか、風受けが送風口に取り付けられていました。卓上には、桐の箱の中から磨きたての銀食器が外光を受けてきらりと輝き、塩や胡椒といった調味料はガラス細工の器の中で色鮮やかに安らいでいます。

 積み重なっていた硝子コップの山の中から二つ持ち上げると、ご主人と私の分の水を注ぎます。

「どうぞです、ご主人」

「ありがとね」

 テーブルの上に置かれていたメニューは、角が取れて丸くなっている黒い無地のハードカバー仕様になっており、広げると、地元の方たちに愛されて三十年の趣を孕んだ、かすれて、少し消えかかっている手書きの品名の側に、その品の綺麗な写真が添えられており、どれもこれもいい感じの角度から撮られていました。

 ご主人はいつものように野菜がごろごろ入っているカレー、そして私は悩みに悩んだ結果、当店一押し、と太く丸っこい字で補足が入っていたオムライスを選んでみました。どうも一押しだとか、大人気だとかいう言葉に弱くなるのは人間の性なのでしょうか、次に来るときは他のメニューも頼んでみたいですよ。

 呼び鈴を鳴らすと、受付のときと同じ、ぴっちりとした制服に身を包んだ女性店員さんがやってきました。

「ご注文をお伺いします」

「野菜カレーと、オムライスでお願いしますですよ」

「かしこまりました」

 淀みない動作で伝票にすらすらと品目を書くと、厨房の方へと消えていきました。ご主人は例のごとく、店員さんの後ろ姿に熱い視線を送っております。

 私以外の女の人を見たら気持ち悪くなるような願いでもかけられないかしら、という思いが湧き出てきましたが、頭をぷるぷると振ってかき消しました。それはそれでご主人が可愛そうなことになってしまいそうなので止めておきましょう。



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