きょうは、趣向を変えて散文調で更新してみた。
バルみたいな宿の共有スペースで、ノートを開いた。隣の席では誰かがスープをすくい、遠くでは食器が触れ合う音がする。私は「手書きいいねー」と独りごちて、ペンを走らせた。ところが数時間後、読み返したときに気づく。いちばん書き留めたかったはずの情景――湯気がふっと立つ瞬間——が、うまく言葉になっていない。「出てこねーな」。ページの端に残ったその一言が、そのまま今日の実感だった。
でも、この「出てこない」感じこそ、最近の私がいちばん考えたい場所なのかもしれない。記憶はいつも完璧じゃない。むしろ欠けている。欠けた部分を埋めようとするとき、私たちは現実をそのまま複写するのではなく、編集し、並べ替え、少しだけ作り直す。そこで立ち上がってくるのが、モンタージュであり、フィクションだ。
ノートには「モンタージュ手法の魅力」と書いてあって、その下に「異なる時間の並置」「感情のズレに惹かれる」と続いている。モンタージュは映画の編集技法として語られがちだけれど、日記やメモでも同じことが起きていると思う。昨日の怒りと、今朝の落ち込みと、来週の小さな希望が、同じページに同居する。そこには論理的な整合性がない。あるのはズレだ。でも、そのズレがあるからこそ、感情は動く。きれいに筋の通った説明より、説明しきれない余白のほうが、現実の手触りに近い。
私は最近、このズレに対して「憧れ」に近い感情を抱いている。ズレは不安定で、落ち着かない。でも、ズレがあると、固定されていた見方がほどける。今日の自分が昨日の自分を裏切っていい。未来の自分が今日の結論を更新していい。ズレは、変化を許すための空間でもある。
その空間を肯定するために、私はこんな定義をメモに残していた。「私にとってフィクションとは、現実をかけ離れた状況を描くことではない。最終的には現実を説明できるツールだ」読み返して、うなずいてしまう。現実そのものは、往々にして言葉にしづらい。制度、関係、羞恥、期待、疲労。どれも一言で片づけると嘘になる。でも、現実を少しだけ曲げたり、時間を入れ替えたり、視点をずらしたりすると、ようやく見えてくる輪郭がある。だからフィクションは、逃げではなく理解のために働く。
最近気になっている作家にAyoung Kimがいる。作品紹介やインタビューを追いかけていると、SF的な設定がむしろ「現実の説明」に向かって開いていく感覚がある。派手な設定は、現実から遠ざかるためじゃない。見えにくい制度や、言いにくい痛み、うまく名づけられない欲望を、別の角度から照らすためのライトになる。ノートの端の「かっこいい!」は、たぶん私がその手がかりをもっと集めたいと思っていた証拠だ。断片的な参照を集める行為は、思考の地図を作ることに似ている。
ただし、地図づくりには体力がいる。メモには「一時間読書するのも疲れるなー」と、かなり正直な告白もあった。わかる。読みたい本は増えるのに、生活は待ってくれない。ここで浮かび上がるもうひとつのキーワードが「ケア労働」だ。
ケア労働というと介護や育児のような他者ケアを思い浮かべがちだけれど、私はもう少し広く、生活を回し続けるためのあらゆる営みとして捉えたい。食べる、洗う、片づける、連絡する、関係を保つ、気持ちを整える。そういう「生きるための下支え」は、目立たないのに確実に時間を使う。しかも厄介なのは、ケアは「やらない」という選択が取りにくいことだ。だから創作や読書の時間を確保しようとすると、ケアとぶつかる。ケアが悪いのではなく、基礎であるがゆえに疲労が溜まると上に積むものが崩れやすい、という構造の問題が出る。
メモの冒頭に「ケア労働? 生きる デザイン」とあったのは、生活を「おしゃれに最適化する」意味のデザインではなく、「制約の中で配置し直す」意味のデザインとして捉え直したかったからだと思う。どこに力を入れ、どこを諦め、どこに頼り、どこで休むか。デザインは、制約の中での選択の連続だ。生活と創作を対立させるのではなく、生活の編集がそのまま創作の素材になるような回路を作りたい。
ここで、メモに残っていた「クッション」という言葉が効いてくる。「マークのクッションの件、クッション比率0.23」。文脈は断片のままだけれど、私にとってこれは、予定や作業の設計に必要な「余白」の比率のメモだ。予定をぎゅうぎゅうに詰めると、ケアが割り込んだ瞬間に全体が崩れる。最初からクッションを入れておけば、ズレが起きても戻ってこられる。0.23という数字が妙に具体的なのもいい。完璧な根拠がなくても、自分の感覚として「だいたい四分の一弱は余白にする」という指針は実用的で、救いになる。
余白を作ることは、単なる時間管理だけの話じゃない。メモには「社会的な内面理解を維持しながら、美的経験をどの力に拡張できるか?」という問いもあった。社会の中で受け取る感情や違和感を、ただ消費せず、観察し、言葉にし、形にすること。誰かと関わるときに生まれる小さな痛みや居心地の悪さ、逆に救われる瞬間を、内面の中で反芻するだけで終わらせないこと。その営みが、美的経験を増幅させる。美は「特別な時間」だけのものではなく、社会の中での生々しいやりとりからも立ち上がる。
抽象と具体を行き来する必要がある、というメモも残っていた。「抽象いくつか、この内容」「具体的アクション」。読むだけだと抽象だけが溜まり、やることだけ並べると具体だけが増えて息が詰まる。だから私は、抽象をいくつかに絞って、その内訳を作り、具体の行動に落とし込む――その往復を意識したい。
今日のメモから拾える抽象は、たとえば三つ。
一つ目はモンタージュ。異なる時間を並置し、ズレを残す。
二つ目はクッション。ケアが割り込む前提で余白を設計する。
三つ目はフィクション。現実から逃げずに、現実を説明する道具として使う。
じゃあ具体的アクションはどうするか。今月の小さな実験としてまとめてみる。
まず、毎日三行だけ手書きメモを残す。出来事一行、感情一行、ズレ一行。ズレは「今日の自分が昨日の自分と違った点」でもいいし、「言葉にならなかった湯気」でもいい。三行に収めることで、完璧主義を避ける。
次に、週に一度、メモを並べ替える時間を作る。過去のページを開いて、今日のページと隣に置く。関連がなさそうな二つをあえて近づける。これは自分のための編集作業で、モンタージュを身体化する練習になる。並べ替えたあとに短い見出しを付けるなら、説明じゃなくて問いにしたい。「湯気はどこへ消える?」みたいに。
三つ目に、予定表に0.23のクッションを入れる。作業時間の二割強は、最初から「何もしない余白」として確保しておく。空白はサボりではなく、ケアとズレの受け皿だと定義する。空白があると、急な連絡や体調の波が来ても、自己嫌悪の量が減る。
四つ目に、読む本を小分けにする。メモにはゴフマンの『アサイラム』(1961)と書いてあった。こういう本は一気に読もうとすると折れやすいから、十ページ読む日、三ページ読む日、目次だけ眺める日、みたいに分割してもいい。読書もケアの一部として扱う。
五つ目に、Ayoung Kimの言葉や参照を集める。引用そのものを目的にせず、参照の地図を作る。どんな制度が背景にあるのか、どんな感情が駆動力になるのかをメモしておく。メモにあった「需要ok」は、自分に対する小さな許可として受け取っておきたい。「掘っていい」「続けていい」という許可は、ケアに押されて消えがちな好奇心を守ってくれる。
最後に、短いフィクションを書く。長編じゃなくていい。メモの断片を並べた一ページでもいい。ポイントは現実を「そのまま」写すのではなく、説明したい構造が見えるように編集すること。湯気がうまく言葉にならなかったなら、湯気の代わりに「出てこなかったこと」を中心に据える。出てこないものを追いかける人物を描く。そこに制度やケアの圧力がどう影を落とすかを置く。すると、現実の別の顔が浮かび上がる。
こうして書き出してみると、手書きメモは単なる記録ではなく、生活と創作の間に置く小さな装置になる。手書きという遅い媒体は、問いに向き合う速度を強制してくれる。キーボードなら消してしまう迷いも、ペンなら残る。残った線が、別の時間と結びついてモンタージュになる。モンタージュができると、ズレが怖くなくなる。ズレが怖くなくなると、ケアの重さの中でも、内面を閉じずにいられる。
メモは、未来の自分への小さな「思い出させる仕掛け」でもある。書いた瞬間に意味がわからない言葉も、消さないで残しておく。わからなさを残すことが、あとで編集するときの素材になるからだ。
ブログにするのは、その編集室を少しだけ外に開く行為だと思う。完成した結論を配るというより、途中の机を覗いてもらう感じ。うまく言葉にならない湯気、疲れている読書、0.23の余白。そういう半端な断片が、誰かの生活のどこかに引っかかって、別のズレを生むかもしれない。
明日またページを開いたら、今日の文章も「過去の断片」になる。その断片と次の断片を並べるとき、私はまた別の説明を作れる。モンタージュは終わらない。だからこそ、続けられる。
生活が忙しすぎて本も読めない、創作も進まない、という日が来たら、まずクッションを作る。予定表に空欄を置く。五分だけメモを書く。湯気の立つ飲み物を用意する。小さな余白が、異なる時間を並べるための編集室になる。そこから、現実を説明するための物語が、ゆっくり立ち上がってくるはずだ。
そして、湯気がうまく言葉にならなかった日も、その失敗をメモに残しておく。あとから読み返したとき、湯気そのものより、湯気が出てこなかったことのほうが、あなたの現実を説明する鍵になっているかもしれないから。
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