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【ドカ食い気絶からの卒業】あの日見た「大盛り」の夢を諦めて、僕らは「並盛り」を選べる大人になる。〜胃袋と和解する生存戦略〜

目次

はじめに

深夜一時、国道沿いのラーメン屋の看板が放つ赤い光は、ある種の救済の光に見えることがある。仕事で理不尽な要求を飲み込んだ日、人間関係の摩擦で心がささくれ立った夜、あるいは単純に空腹が限界を超えた瞬間、我々は吸い寄せられるようにその暖簾をくぐる。券売機の前に立ち、並んでいるボタンを眺めるとき、思考の片隅で警報が鳴り響いていることには気づいているはずだ。この時間に、この脂質の塊を、しかも大盛りで胃袋に流し込むことが何を意味するのか。明日の朝、重たい胃を抱えて目覚める自分の姿が容易に想像できるにもかかわらず、指は迷うことなく大盛り、あるいは特盛のボタンを押し、さらにはサイドメニューのチャーハンや餃子にまで手を伸ばしてしまう。

運ばれてきた丼から立ち上る湯気と豚骨の香りは、疲弊した脳髄を直接刺激する麻薬のようだ。箸を割り、麺をすすり上げた瞬間、脳内で快楽物質が炸裂し、先ほどまでの鬱屈とした気分は一瞬で吹き飛ぶ。口いっぱいに頬張る行為は、単なる栄養摂取を超えた、ストレスという見えない敵への攻撃であり、同時に自分自身への慰めでもある。食べている間だけは、我々は万能感に包まれ、無敵になれるのだ。

しかし、その祝祭は長くは続かない。最後のひと口を飲み込み、店を出て夜風に当たった瞬間、あるいは帰宅してベッドに倒れ込んだ直後、魔法は残酷なまでに唐突に解ける。胃袋の中で膨れ上がった小麦と脂の塊は、鉛のように重くのしかかり、食道あたりまで酸っぱい不快感が込み上げてくる。翌朝の目覚めは最悪である。鏡に映る顔はむくみ、体は重く、何より自分自身の意志の弱さに対する強烈な嫌悪感が胸を去来する。

ストレス解消には確かになるが、その代償として支払う身体的、精神的コストがあまりにも高すぎる。それがドカ食いの正体だ。若い頃なら笑い話で済んだその無茶が、年齢を重ねるにつれて笑えない事態を引き起こすようになる。これは、食欲という暴れ馬の手綱を握り直し、かつての大盛りへの執着を手放して、並盛りという平穏を選ぶことができるようになるまでの、胃袋と心の成長の記録である。

第一章 なぜ我々は限界を超えて食べてしまうのか

ドカ食いをやめるためには、まず自分たちがなぜそのような行動に走ってしまうのか、そのメカニズムを理解する必要がある。単に意志が弱いから、卑しいからといって自分を責めるのは見当違いだ。そこには生物学的な理由と、現代社会特有のストレス構造が複雑に絡み合っている。

我々がストレスを感じると、脳はコルチゾールというホルモンを分泌する。このホルモンには食欲を増進させる作用があり、特に高カロリーな糖質や脂質を求めるように指令を出す。これは太古の昔、ストレスといえば飢餓や外敵の襲来といった生命の危機に直結していた時代の名残である。戦うか逃げるか、いずれにせよエネルギーが必要になるため、体は本能的にカロリーを蓄えようとするのだ。現代のストレスは上司の小言や将来の不安といった、物理的なエネルギー消費を伴わないものが大半だが、脳の反応システムは更新されていない。その結果、動かないのに食べたくなるというミスマッチが起こる。

さらに、食べるという行為そのものが持つ鎮静作用も見逃せない。咀嚼というリズム運動は、脳内のセロトニン神経を活性化させ、精神を安定させる効果がある。イライラしたときにガムを噛んだり、貧乏ゆすりをしたりするのと同様に、我々はガツガツと食べ物を噛み砕くことで、無意識のうちに脳の興奮を鎮めようとしているのである。また、満腹になって胃に血液が集中すると、相対的に脳への血流が減り、思考能力が低下して眠くなる。悩み事が頭から離れない夜、限界まで食べて気絶するように眠るのは、一種の麻酔のような効果を期待しているからに他ならない。ドカ食いは、処理しきれない感情を物理的な満腹感で押し流し、一時的にシャットダウンするための、悲しいほど機能的な生存戦略だったのである。

また、そこには経済的な合理性を装った心理的な罠も存在する。大盛り無料、替え玉一玉サービス、食べ放題といった言葉に、我々は弱すぎる。同じ値段なら多いほうが得だ、元を取らなければ損だという貧乏性が、胃袋のキャパシティよりも優先されてしまうのだ。しかし、冷静に考えてみれば、必要以上のカロリーを摂取して健康を害し、翌日のパフォーマンスを下げることのほうが、よほど大きな損失であるはずだ。我々は目の前の数百円の得のために、自分の体調というかけがえのない資産をドブに捨てている事実に気づかなければならない。

第二章 年齢という現実と胃袋の履歴書

二十代の頃、我々の胃袋は無敵であった。焼肉の食べ放題に行った後にラーメンで締め、そのままカラオケで朝まで歌っても、数時間眠ればケロリとしていた。あの頃、胃袋は無限の宇宙であり、食べれば食べるほど力が湧いてくるような気がしていた。しかし、三十代、四十代と年齢を重ねるにつれ、事態は確実に変化する。精神年齢は二十代のままでも、内臓は正直にカレンダー通りの、いや、それまでの酷使によってはそれ以上の年齢を重ねている。

加齢に伴う変化は、ある日突然やってくるものではなく、グラデーションのように徐々に、しかし確実に進行する。まず、脂っこいものを受け付けなくなる。カルビよりもロース、ロースよりもハラミ、やがては赤身やタンを好むようになる。これは味覚が大人になったというよりも、脂質を分解する酵素の働きが低下し、胃酸の分泌バランスが崩れやすくなっているという身体的な事情によるものだ。若い頃と同じ感覚で揚げ物定食や背脂たっぷりのラーメンを注文すると、食後数時間してから強烈なしっぺ返しを食らうことになる。

胃の蠕動運動も弱くなる。かつては数時間で消化されていたものが、いつまでも胃の中に留まり続けるようになる。これが胃もたれや膨満感の正体だ。さらに、食道と胃のつなぎ目である下部食道括約筋の締まりも悪くなり、胃酸が逆流しやすくなる。夜中に胸焼けで目が覚めたり、酸っぱいものが込み上げてきたりするのは、体が発している明確な悲鳴である。

これを体の衰え、退化と捉えると悲しくなるが、仕様変更と捉え直してみてはどうだろうか。若い頃の体は燃費の悪いスポーツカーのようなもので、大量のガソリンをばら撒きながら走っていた。しかし、年齢を重ねた今の体は、少ない燃料で効率よく走れるエコカーやハイブリッドカーにモデルチェンジしたのだ。それなのに、スポーツカー時代と同じ量のガソリンを給油口に突っ込めば、当然溢れ出す。それが現在の不調の原因である。我々は、自分の体がハイオクガソリンを大量消費する仕様から、上質なオイルを少しだけ必要とする仕様に変わった事実を受け入れなければならない。

ドカ食いの代償も、若い頃のようにちょっと太る程度では済まない。翌日の仕事のパフォーマンスは著しく低下し、体は重く、集中力は散漫になり、自己嫌悪で精神的にも不安定になる。一時の快楽のために支払うコストが、年齢とともにインフレーションを起こしているのだ。ストレス解消のために食べたはずが、その結果体調を崩して新たなストレスを抱え込むという負のループ。この構造に気づき、自分の内臓年齢を直視することこそが、卒業への第一歩となる。

第三章 空腹時の自分を信じてはいけない

ドカ食いからの卒業において最大の難関となるのが、注文時の自分との戦いである。空腹時の脳は、我々に嘘をつく。血糖値が下がり、飢餓感のシグナルが脳内を駆け巡っているとき、我々の判断力は著しく低下している。メニューの写真を見ながら、今の僕ならいける、今日は朝から何も食べていないから倍盛りでも足りないくらいだ、と本気で思い込んでしまうのだ。

しかし、断言してもいいだろう。空腹時の自己評価は、泥酔時の、僕は酔っていないという言葉と同じくらい信用ならない。

実際に大盛りや食べ放題に挑んで、最後のひと口まで最初のひと口と同じようにおいしく味わえた記憶がどれだけあるだろうか。多くの場合、食事の後半は惰性との戦いになっている。満腹中枢からの停止信号を無視し、残すのは申し訳ないという義務感や、注文した自分のプライドを守るために、ただ機械的に口に運んでいるだけではないか。そのとき、食事は楽しみではなく、消化しなければならないタスクへと成り下がっている。

並盛りを選ぶ勇気を持つこと。それは妥協でも敗北でもない。空腹のピーク時に券売機の前に立つと、並盛りのボタンがひどく頼りなく、物足りないものに見えることがある。こんな量で私の空腹が満たされるはずがないと、脳が叫び声を上げる。しかし、思い出してほしい。並盛りで足りなくて餓死した人間はいない。仮に少し足りなかったとしても、それは飢餓ではなく、心地よい余白である。その余白があるからこそ、食後の体を軽やかに動かすことができ、午後の会議で強烈な眠気に襲われずに済むのだ。

セットメニューで量が多すぎると分かっているなら、注文時にご飯少なめで頼む勇気も必要だ。男なのに、あるいは食べ盛りなのに少なめなんて恥ずかしいという思い込みは捨てるべきである。店員は一日に何百人もの客を相手にしており、こちらの注文量などいちいち気にしていない。むしろ、出されたものを無理して完食し、苦しそうに店を出るよりも、自分の適量を把握し、きれいに平らげてスマートに食事を終える姿のほうが、よほど成熟した大人の振る舞いと言える。

第四章 衝動を飼いならすための技術

精神論だけで長年の習慣を変えるのは困難である。ドカ食いという強力な衝動に対抗するためには、具体的な技術と環境設定が必要だ。ここでいくつかの実践的なメソッドを紹介する。

まず、店に入って席に着いたら、何はともあれ水を一杯、ゆっくりと飲み干すことだ。空腹時は胃が収縮し、胃酸が分泌されて過敏になっている。そこにいきなり固形物を放り込むのではなく、まず水を入れて胃を落ち着かせ、今から食べ物が入るという準備信号を送る。これだけで、最初の猛烈なガツきたいという衝動の数パーセントを削ぐことができる。

次に、食べる順番を意識する。野菜から食べるベジタブルファーストは有名だが、個人的には温かい汁物を最初に口にすることを強く勧めたい。味噌汁やスープが胃に入ると、内臓が温まり、副交感神経が優位になってリラックスモードに入る。早食いのペースが自然と落ち、満腹感を得やすくなるのだ。ラーメン屋であれば、いきなり麺をすするのではなく、まずスープを一口味わい、レンゲを置いて一呼吸置く。この一瞬の間が、暴走モードへのブレーキとなる。

そして、最も現代的で、かつ効果的な対策が、食事中にスマートフォンを見ないことだ。動画を見ながら、SNSをチェックしながらのながら食べは、ドカ食いの親友と言っても過言ではない。視覚からの情報に脳の処理能力が奪われ、味覚や満腹中枢からの信号が無視されてしまう。気づいたら皿が空だった、どんな味だったかあまり覚えていないという経験があるなら、あなたは食事をしていない。ただ胃袋に物質を流し込んだだけだ。せめて最初の五分間だけでいいので、スマホを伏せ、目の前の料理の色、香り、食感、温度に意識を向けてみる。食材と向き合い、丁寧に味わうことで、脳はより少ない量で満足感を得ることができる。これをマインドフルイーティングと呼ぶが、要はちゃんと味わって食べろという当たり前のことである。

さらに、食以外のストレスの逃げ道を確保しておくことも重要だ。むしゃくしゃして何か食べたいと感じたとき、それが本当の空腹なのか、単なるストレス反応なのかを見極める必要がある。とりあえず無糖の炭酸水を飲む、熱いシャワーを浴びる、スクワットをする、カラオケで絶叫する。食べるという行為以外でドーパミンを放出させたり、気分を切り替えたりする手札をいくつか持っておくことで、冷蔵庫を開ける前に踏みとどまることができる。

第五章 並盛りの向こう側にある景色

ドカ食いをやめ、腹八分目や並盛りを習慣にすると、どんな変化が訪れるのだろうか。それは単に痩せるとか、健康診断の数値が良くなるといった物理的なメリットだけではない。人生の解像度が少し上がり、日々の幸福度が底上げされるような感覚だ。

まず、食事が単なる燃料補給やストレス発散の破壊活動から、純粋な楽しみへと戻る。量が適正になると、質に目が向くようになる。お腹が苦しくなるまで詰め込むのではなく、一品一品の味の輪郭を捉えられるようになる。今日は並盛りにしたから、その分トッピングで味玉をつけてみよう、浮いたお金で食後のコーヒーを少し良い店で飲もう。そんな些細な選択に喜びを感じられるようになる。限界まで食べて動けなくなる快楽よりも、美味しかったと心から思える余韻とともに店を出る幸福のほうが、長く穏やかに続く。

そして何より、翌朝の目覚めが劇的に変わる。胃の中に未消化物が残っていない状態で迎える朝は、驚くほど体が軽い。胃が重い、昨夜あんなに食べなければよかったという後悔とともに始まる一日と、お腹が空いた、朝ごはんは何を食べようかという前向きな欲求で始まる一日。このスタートダッシュの違いは、その日一日の気分やパフォーマンスを大きく左右する。朝の目覚めが希望に変わる、これは決して大袈裟な表現ではない。

自分をコントロールできているという感覚は、自己肯定感にもつながる。食欲という最も原始的で強力な本能を、理性の力で手懐けることができた。大盛り無料の甘い誘惑を断ち切り、自分にとって適切な量を選び取ることができた。その小さな勝利の積み重ねは、自分は自分の体を大切に扱えているという自信を育む。それはやがて、食事以外の場面でも、自分を律し、大切にする姿勢へと波及していくであろう。

結び 胃袋との和解と新しい契約

我々は長い間、自分の胃袋に対してあまりにも無神経で、残酷な主人であった。ブラック企業の経営者のように、まだ働けるだろう、これくらい消化しろと無茶な残業を強い、深夜のドカ食いという名の過重労働を押し付けてきた。胃もたれや腹痛は、物言わぬ臓器からの必死のストライキであり、これ以上は無理だという悲鳴だったのである。

ドカ食いからの卒業とは、単なるダイエットや節制の話ではない。それは、長年酷使してきた自分の胃袋と和解し、新しい労使協定を結ぶことだ。無理な暴飲暴食という残業はさせない、就寝数時間前という定時には業務を終了させる、その代わり、本当に美味しいものを、体が喜ぶ適切な量だけ一緒に楽しむ。そうやって自分の体と対話しながら生きていくことは、年齢を重ねたからこそできる、大人の贅沢な遊び方なのかもしれない。

並盛りで満足することは、老いへの敗北でもなければ、楽しみを諦めることでもない。それは、欲望の奴隷状態から脱却し、自分の意志で人生の手綱を握り直すこと。長く健康に、そして美味しく食事を楽しみ続けるための、賢明な戦略なのである。

さあ、次の食事の時、メニューを開いたら心の中で唱えてみてほしい。私は並盛りで十分に幸せになれる、と。その言葉は魔法の呪文のように、我々を重苦しい満腹地獄から救い出し、軽やかで自由な世界へと導いてくれるはずだ。ドカ食いという嵐を抜けた先には、凪のように穏やかで、滋味深い食卓が待っている。ようこそ、こちらの世界へ。ここでの食事は、きっと今までよりもずっと美味しいはずである。



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