羊の視点から見た世界は、人間のそれとはまったく違う。草のにおい、風の向き、群れの体温。彼女たちにとって大事なのは、そうした感覚だ。そんな世界で、ある殺人事件の捜査が始まる。
舞台はアイルランドののどかな村。羊飼いのジョージが、何者かに殺された。最初に異変に気づいたのは、彼が飼っていた羊たちだった。主人の無念を晴らすため、羊たちは独自の捜査を始める。
群れには個性的な羊がそろっている。頭の切れるミス・メイプル。秘密めいた過去を持つ四本角のオテロ。驚くほど記憶力のいいモップル。そして群れを率いる老羊サー・リッチフィールド。彼女たちは、人間たちの行動を観察しながら、少しずつ事件の手がかりを集めていく。
この小説のおもしろさは、「羊にしか見えない世界」にある。羊たちは人間の言葉をほとんど理解できない。「ジョージ」「死んだ」「なぜ」といった単純な概念はわかっても、人間社会の複雑な動機や人間関係までは理解できない。
しかも捜査の途中で、羊たちはしばしば脱線する。重要な場面でも、ふと牧草のにおいがすると、そちらへ歩いていってしまうのだ。このズレが笑いを生む。同時に、羊視点という設定を単なるアイデアで終わらせず、物語の構造そのものに組み込んでいる。
中心となるのはミス・メイプルだ。名前からもわかるように、アガサ・クリスティの名探偵ミス・マープルを意識した存在である。ただし彼女が持つのは、人間のような論理的推理力ではない。羊としての鋭い感覚と、物語への強い執着だ。
ジョージは生前、羊たちに探偵小説を読み聞かせていた。ミス・メイプルは、その記憶を頼りに「探偵とはどう動くものか」を羊なりに理解し、牧草地で実践しようとする。その姿はどこか愛らしく、同時に意外なほど鋭い。
読み進めるうちに、むしろ愚かなのは人間ではないかと思えてくる。羊たちは嘘をつかず、群れを裏切ることを本能的に恐れる。そんな存在から見ると、「殺人」という行為そのものが理解しがたい。羊たちの純真な視点を通すことで、人間社会の欺瞞や複雑さが逆に浮かび上がってくる。
原題はGlennkill。2005年にドイツで刊行され、22カ国以上で翻訳されたベストセラーだ。2007年の邦訳刊行から18年を経た新版には、♪akira氏による新しい解説も収録されている。
また、2025年5月には映画版も公開された。ヒュー・ジャックマンとエマ・トンプソンが出演したことで話題になり、映画から原作へ入る読者も増えている。
翻訳については、難しさを指摘する声もある。羊たちの語りのユーモアは、ドイツ語の言い回しに強く支えられているため、日本語では一部のニュアンスが伝わりにくいという意見だ。それでも、「羊が殺人事件を捜査する」という発想の強さは、言語を越えて伝わってくる。
草を食みながら犯人を追う羊たち。その奇妙さと愛らしさは、一度読むと忘れがたい。
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