生成AIの登場によって、自動化をめぐる風景は大きく変わった。機械化と聞いて長く連想されてきたのは、工場の生産ラインや定型的な事務作業だった。しかし現在の生成AIは文章、画像、プログラムコードなどを生成し、これまで人間の知識や技能に強く依存していた仕事の一部にも使われている。
ただし、ここで仕事が次々にAIへ置き換えられていると言い切るのは早い。国際労働機関の2025年の調査では、世界の雇用のおよそ4分の1が生成AIに何らかの形でさらされる可能性がある一方、もっとも起こりやすいのは職業そのものの消滅ではなく、仕事を構成する業務の変化だとされている。特に影響を受けやすいのは事務職だが、金融分析、ウェブ開発、プログラミングなど専門性の高い職種でも生成AIへの露出が広がっている。
重要なのは、肉体労働から知的労働へと単純に代替の順番が逆転したことではない。これまで別々に語られがちだった工場の自動化と知的作業の自動化が、同じ問題として見えるようになったことだ。人間が持っていた技能を機械へ移したとき、仕事を失うこと以上に何が失われるのか。効率化によって空いた時間は人間を自由にするのか。それとも、仕事を通して得ていた役割や判断の機会まで奪うのか。
この問題を考えるとき、ディストピアSFは未来を当てた予言書として読むよりも、技術と社会の関係を極端な条件まで押し進める思考実験として読む方が面白い。『プレイヤー・ピアノ』は工場の自動化、『言壺』は言葉と著述支援、『AIとSF』は生成AIが社会へ入り始めた時代そのものを扱っている。書かれた時代の異なる三冊を並べると、自動化の対象が広がってきた歴史と、そのたびに人間の価値がどこにあるのかを考え直してきたSFの流れが見えてくる。
目次
1. 『プレイヤー・ピアノ』カート・ヴォネガット
カート・ヴォネガットの処女長篇『プレイヤー・ピアノ』は1952年に刊行された。舞台は第三次世界大戦後のアメリカ。戦時中に進んだ機械化がそのまま平時にも引き継がれ、生産の多くが自動化されている。社会の上層には機械と組織を管理する技術者や管理職が位置し、その外側に、かつて工場で働いていた多くの人々が置かれている。
主人公ポール・プロテウスはイリアム製作所を率いるエリート技術者だ。彼の立場は安定しており、自動化によって職を失った側ではない。それでもポールは、自分たちが作り上げた社会に違和感を抱く。生活に必要な物資が供給されていても、自分の技能が社会から必要とされない人々は満たされていない。ヴォネガットが描いた問題は失業や所得だけではなく、人間が自分を必要な存在だと感じられるかどうかにまで及んでいる。
作品の象徴的なエピソードが、熟練工ルディ・ハーツの技能を機械へ移す場面だ。若い技術者だったポールたちは、優秀な機械工であるルディの身体の動きを記録し、その動きを機械に再現させる。熟練した人間の仕事を細かな動作へ分解し、記録可能な情報へ変え、本人がいなくても再生できるようにする。生成AIとは仕組みがまったく異なるが、人間の技能をデータ化し、その成果を自動的に再現するという構図は、現在から読むと強く目に残る。
この設定にはヴォネガット自身の経験も関係している。彼は小説家として成功する前、ゼネラル・エレクトリックで広報の仕事をしていた。『プレイヤー・ピアノ』の自動化社会は、当時進みつつあった工業のオートメーションを極端なところまで押し進めたものだった。
ただし、この作品を機械が人間の仕事を奪う話だけにすると重要な部分を落としてしまう。作中で社会を形づくっているのは機械そのものではなく、効率や能力によって人間を選別する制度だ。技術者や管理職の側にも競争があり、機械化が進めば彼ら自身も不要になる可能性がある。自動化を進める側と自動化される側を完全に分けることはできない。
ここが生成AIの時代に読み返すと面白い。1952年の小説では、熟練工の動きを記録する技術者は機械を作る側にいた。現在はプログラミング、資料作成、翻訳、デザインなど、コンピューターを使ってきた側の業務まで自動化の候補になっている。『プレイヤー・ピアノ』が描いた階級構造をそのまま現代に当てはめることはできないが、自動化を管理しているつもりの人間も永遠に安全ではないという部分は、むしろ現在の方が読み取りやすい。
2. 『言壺』神林長平
神林長平の『言壺』は、1988年から1994年にかけて発表された作品をまとめ、1994年に単行本として刊行された九篇の連作短編集だ。中心にあるのは、万能著述支援用マシンのワーカムである。ワーカムは単なるワープロではない。情報ネットワークへの接続や文書作成支援を備え、人間が文章を書く行為そのものへ介入してくる。
冒頭の「綺文」では、小説家の解良が書こうとした一文をワーカムが支援できないと判断する。ここで問題になるのは、機械が文章を上手に書けるかどうかだけではない。何が意味のある文章なのかを機械の側が判定し、その仕組みを通さなければ文章を扱いにくい社会になったとき、書く人間はどこまで自由でいられるのかという問題だ。
現在の生成AIとワーカムを同じものとして扱うことはできない。『言壺』は大規模言語モデルを予測した小説ではなく、言葉と世界認識の関係を扱った言語SFである。それでも、文章を書く人間と文章作成を支援する機械の境界が揺らぐという設定は、生成AIが普及した現在には以前とは違う具体性を持つ。
生成AIを使えば、文章の要約、構成案、言い換え、校正、下書きまで短時間で行える。便利さは明らかだ。その一方で、提案された文章を選び続けるうちに、自分が文章を作っているのか、機械が作った選択肢を編集しているのか、その境界は簡単に曖昧になる。『言壺』が面白いのは、機械による失業よりも手前にあるこの問題を扱っているところだ。
人間が仕事を失わなくても、仕事の中身は変わる。書き手が一から文を作る時間が減り、生成された文を選別し、修正し、責任を持つ仕事へ移るかもしれない。それを創作の解放と見ることもできるし、自分で言葉を探す過程の喪失と見ることもできる。『言壺』は後者だけを単純に警告する作品ではない。九篇を通して、言葉を作ること、言葉によって世界を認識すること、その二つが切り離せないことをさまざまな設定から描いている。
『言壺』は1995年に第16回日本SF大賞を受賞した。生成AIが登場したから急に現代的になった作品ではないが、文章作成を機械に手伝わせることが日常になったことで、読者がワーカムの問題を自分の経験として想像しやすくなったのは確かだ。文章を書くことのどこまでを機械へ渡しても、自分が書いたと言えるのか。現在の方が、この問いから逃げにくい。
3. 『AIとSF』日本SF作家クラブ編
『AIとSF』は日本SF作家クラブ編による書き下ろしアンソロジーで、2023年5月に早川書房から刊行された。画像生成AIやChatGPTが一般にも急速に知られ始めた時期の本で、22名の作家による22篇を収録する。冒頭にはAIと人間の関係を研究する大澤博隆のまえがきが置かれている。
『プレイヤー・ピアノ』や『言壺』との大きな違いは、AIが遠い未来の装置ではなくなったあとに書かれていることだ。チャットボット、AIカウンセラー、創作、医療など、すでに現実で議論されている技術や用途のすぐ先を描く作品が並ぶ。そのため、古典的なディストピアのように一つの管理社会を描く本ではない。AIによって起こりうる変化を22の方向へ分岐させた思考実験集として読む方が近い。
揚羽はなの「形態学としての病理診断の終わり」は、AIによって病理診断のあり方が変わっていく世界を扱う。ここで重要なのは、AIが人間の専門医を完全に無価値にするという単純な話ではないことだ。定型的な診断をAIが担えるようになったあと、人間の病理医には何が残るのか。未知の症例を考えることや研究へ向かうことまで含め、専門職の役割そのものが組み替えられていく。
この作品を読むと、生成AIと雇用の関係が業種単位ではなく業務単位で語られるべきだと分かる。現実の研究でも、AIの影響は職業単位で丸ごと置換されるかどうかより、その職業を構成する個々の業務がどう変わるかという形で分析されることが多い。診断という専門業務の一部が自動化されたからといって、医師という職業がそのまま消えるわけではない。むしろ、何を機械へ任せ、どこから人間が判断するのかという線引きが変わる。
柞刈湯葉の「Forget me, bot」は別の角度からAIを扱う。対話型AIとネット上の記憶が結びつくことで、本人が管理できない形で自分についての情報が生成される。ここで問題になるのは雇用よりも、誰が自分について語る権利を持つのかということだ。生成AIがもっともらしい文章を作れるようになると、言葉を作る能力だけでなく、その言葉が誰に帰属するのかまで不安定になる。
安野貴博の「シークレット・プロンプト」も収録されている。安野はその後、2024年の東京都知事選挙に立候補することになるが、この短編が刊行されたのはその前年だ。現在の経歴を作品の成立事情と混同しない方がいい。むしろ2023年の時点で、生成AIと社会制度の接点をフィクションとして扱っていた作家が、その後現実の政治活動にも進んだという時間の順序そのものが興味深い。
『AIとSF』のあと、2024年には続編『AIとSF2』も刊行された。最初の一冊が生成AIの急浮上とほぼ同時期に作られたのに対し、続編では社会実装が進んだあとのAIとの共生がより前面に出ている。わずかな期間でもAIをめぐるSFの前提が変わっていることが、この二冊から分かる。
自動化が奪うのは仕事だけなのか
三冊を年代順に並べると、扱われる技術は大きく異なる。『プレイヤー・ピアノ』では熟練工の身体技能が機械へ移され、『言壺』では文章を書く過程へ機械が入り込み、『AIとSF』では診断、対話、創作、情報の信頼性までAIとの関係が広がっている。
だからといって、SFが予言していた未来がそのまま現実になったと結論づける必要はない。現実の生成AIについても、現時点で大量の専門職が一斉に消えると断定できる根拠はない。ILOの分析が示すように、少なくとも現在は職業の全面的な代替より、仕事を構成する業務の変化として捉える方が慎重だ。
それでも、この三冊をいま読む意味はある。共通しているのは、人間にしかできないと思われていた行為を機械が担えるようになったあと、人間の価値をどこへ置くのかという問題だからだ。ルディ・ハーツの技能を機械が再現できても、彼が仕事から得ていた誇りまで機械へ移るわけではない。ワーカムが文章を支援できても、何を書くべきかという判断まで簡単に委ねられるわけではない。AIが診断を担えても、未知の事態に向き合う専門家の役割がただちに消えるわけでもない。
生成AIの議論では、何人分の仕事を代替できるか、どれだけ時間を短縮できるかという数字に目が向きやすい。しかし仕事は所得を得る手段であると同時に、技能を身につけ、判断し、他人から必要とされる場所でもある。効率化によって作業時間を減らせたとき、その余白を人間の自由に変えられるのか。それとも効率化した分だけ、さらに少ない人数で同じ成果を求めるのか。ここには技術だけでは決まらない社会の選択がある。
ディストピアSFをいま読む意味もそこにある。SFはAIが人間を滅ぼすかどうかだけを考えるためのものではない。便利な技術を受け入れたあと、自分たちがどんな働き方や制度を選ぶのかを考えるためにも使える。『プレイヤー・ピアノ』から七十年以上が経った現在でも、自動化をめぐる問題が終わっていないのは、技術が進歩し続けているからだけではない。機械に任せられることが増えるたび、人間は何を自分の仕事として残したいのかを決め直さなければならないからだ。
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