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全部わからなくても読んでいい——難解SFとの付き合い方を4作品から考える

難解SFを読んでいると、ときどき不安になる。自分は本当にこの小説を読めているのだろうか。科学や哲学の話が続き、理解できないままページをめくっていると、大事なものを取りこぼしているような気がしてくる。

だが、難解SFを読むために、作品のすべてを理解する必要はあるのだろうか。そもそも難解と呼ばれる理由は作品によって違う。概念そのものが難しい作品もあれば、専門用語の密度が高い作品もある。物語の構造が意図的に不安定な作品や、一度読んだだけでは見えない情報を大量に抱えた作品もある。難しさの種類が違うなら、求められる理解の形も同じではないはずだ。

目次

難解という言葉だけでは足りない

難解SFを前にすると、理解できるか、理解できないかの二択で考えてしまいがちだ。けれど実際に読んでみると、つまずく場所は作品ごとにかなり違う。理論の説明で立ち止まることもあれば、専門用語はわからなくても物語そのものは追えることもある。反対に、一文一文は読めるのに、全体の構造がどうなっているのかわからない作品もある。

ここをひとまとめに難しいで片づけると、必要以上に身構えてしまう。わからない場所があったとき、その作品全体を理解できていないような気持ちになるからだ。しかし、科学的な理屈がわからないことと、物語から何も受け取れていないことは同じではない。構造を説明できないことと、作品の空気や問いを感じ取れていないことも別の話だ。

難解SFを読むときは、まず自分が何につまずいているのかを分けて考えたほうがいいのかもしれない。概念が難しいのか、用語が多いのか、物語の構造がつかみにくいのか、それとも一度読んだだけでは情報が足りないのか。難しさの正体が見えてくると、すべてを同じ深さで理解する必要はないことにも気づく。

ここからは四つの作品を通して、難解さの違いを見ていきたい。どの作品も簡単に読めるとは言いにくいが、難しい理由はそれぞれ異なる。その違いを追っていくと、難解SFをどこまで理解して読めばいいのかという問いも、少しずつ見えやすくなる。

概念そのものが難しい『順列都市』

グレッグ・イーガンの『順列都市』は、コンピュータ上で動く人格のコピーを通して、意識や存在の根拠を突き詰めていく作品だ。後半では塵理論が大きな意味を持ち、読者がそれまで立っていた足場そのものを揺さぶってくる。イーガン自身も公式サイトに塵理論のFAQを公開しており、刊行後に読者から多くの疑問が寄せられたことを記している。

それほど議論を呼ぶアイデアなのだから、一度ですべてを理解できなくても不思議ではない。重要なのは、理論の細部を完全に説明できるかどうかだけではないと思う。自分という存在は何によって自分であり続けるのか。意識を計算として再現できるなら、その計算はどこで実行される必要があるのか。そうした問いが頭に残った時点で、作品の核心にはすでに触れている。わからない部分を残したまま先へ進み、読み終えてから考え直してもいい。

専門用語が押し寄せる『ブラインドサイト』

ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』は、意識は知性に必要なのかという問いを正面から扱うハードSFだ。脳科学や認知科学、進化生物学などに関わる話題が高い密度で詰め込まれている。原著には長いNotes and Referencesがあり、ワッツ自身のサイトで公開されている版からも、作中の発想と実際の研究とのつながりを確認できる。

だからといって、専門知識を身につけてからでなければ読めない作品ではない。物語には未知の異星知性とのファーストコンタクトという強い推進力がある。専門用語を完全に消化できなくても、人間の知性や意識について信じていた前提が少しずつ崩れていく怖さは伝わってくる。

むしろ『ブラインドサイト』の場合、読み終えてから気になった部分を調べるほうがおもしろい。作品を理解するために知識を先回りして集めるのではなく、作品に疑問を植えつけられたあとで調べる。その調査まで含めて読書が続いていく。

構造そのものが揺らぐ『ダールグレン』

サミュエル・R・ディレイニーの『ダールグレン』は、荒廃した都市ベローナに入り込んだ青年キッドのさまよいを描く。時間や記憶、文章そのものが安定せず、終わりの文が冒頭へつながるような円環的な構造も、この小説の異様さを強めている。

ウィリアム・ギブスンは序文で、自分は『ダールグレン』を理解したことがないという趣旨を書いている。それでも作品を高く評価し、理解できないことが読書の喜びを損なわなかったと語る。難解な作品との付き合い方を考えるうえで、この姿勢はかなり象徴的だと思う。

『ダールグレン』では、散らばった謎を集めてひとつの正解へたどり着くことだけが読書ではない。ベローナという都市に入り込み、時間や現実の感覚が少しずつ崩れていく。その不安定さを体験すること自体が作品の一部になっている。理解できないことが、そのまま作品から排除される理由にはならない。

読み返すことで姿を変える『新しい太陽の書』

ジーン・ウルフの『新しい太陽の書』では、語り手セヴェリアンが驚異的な記憶力を持つと語りながら、情報を伏せたり、出来事を独特の順序で語ったりする。そのため、最初に読んだときには何気なく通り過ぎた一文が、あとから別の意味を帯びて見えてくる。セヴェリアンを信頼できない語り手として読む批評も多く、作品を再読しながら細部を検討する読み方が長く続いている。

作者が再読を前提として設計したとまで断言する必要はない。ただ、実際に再読へ耐えるだけの情報と曖昧さが作品のなかに埋め込まれている。一度目は世界を旅する物語として読み、二度目に語りの違和感を拾う。同じ文章でも、読者が知っていることが増えれば見え方は変わる。その変化も、このシリーズを読む楽しみのひとつだ。

どこまで理解できれば読んだことになるのか

ここまで考えると、理解には段階があるように思う。まず物語のなかで何が起きているのかを追う。次に作品が中心に置いているSF的なアイデアをつかむ。さらに興味が湧けば、その背景にある科学や哲学を調べる。もっと深く読みたくなれば、語りの構造や細部まで掘っていく。

すべての作品で、最初から最後の段階まで進む必要はない。『順列都市』を読んで意識と存在について考え始めたなら、それだけでも持ち帰ったものはある。『ブラインドサイト』を読んで、意識は本当に知性の条件なのかという疑問が残ったなら、その問いは読書のあとも続いていく。

理解は読書を始めるための資格ではない。読んだあとに少しずつ深めていけるものだと思う。一度目の読書ですべてを説明できなくても、その作品から受け取ったものまで消えるわけではない。

わからなさまで含めてSFを読む

難解SFには、理解できない感覚そのものが作品のテーマと重なる瞬間がある。人間とはまったく異なる知性に出会う物語を読みながら、その知性を完全には理解できない。現実や自己の正体を疑う物語を読みながら、読者自身も足場を失っていく。そんなとき、わからなさは単なる説明不足ではなく、作品を体験するための一部になる。

もちろん、何もわからないまま読めばいいという話ではない。わからないから考える。気になったから調べる。もう一度読みたくなったから最初のページへ戻る。ただ、その順番は読んだあとでもいい。すべてを理解してから先へ進もうとすると、難解SFが見せてくれる奇妙な景色にたどり着く前に疲れてしまう。

全部を理解できなかったとしても、その作品から何かひとつ持ち帰れたなら、まずはそれで十分なのだと思う。数年後に読み返したとき、以前は意味のわからなかった一文が急に見えてくるかもしれない。最初の読書で残ったわからなさが、次の読書への入口になる。

難解SFは、一度ですべてを理解して読み終えるためのものではないのかもしれない。わからない部分を抱えたまま本を閉じ、それでも頭のどこかで考え続ける。その時間まで含めて、難解SFを読むという体験なのだと思う。



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