著者のデュナは、本名も性別も年齢も経歴も非公開の韓国SF作家だ。1994年にパソコン通信サービス・ハイテルのSF同好会で活動を始め、以来30年にわたって小説と映画評論を書き続けてきた。「私たち」という代名詞で自身を指すことから複数人の集団という説も根強いが、真偽は明かされていない。その匿名性は、韓国社会の学歴・出身地・年齢・性別にまつわる激しいヒエラルキーから自由になるための選択だとデュナ自身は語っている。
舞台は架空の熱帯国家パトゥサン。韓国の巨大財閥LKグループが建設した世界初の軌道エレベータが、そこに聳え立っている。語り手のマックはLKの重役だが、すでに会社への忠誠心を失いかけている。ある日、末端のエンジニア・チェ・ガンウの不審な言動が目につく。試験の難易度に対して資質が釣り合わない入社経緯、そして故人であるLK前会長しか知り得ないはずの情報を、ふと口にすること。チェ・ガンウの正体をめぐる謎が、軌道エレベータ建設時代の悲惨な事件と交差し、やがてLKグループ、パトゥサン政府、独立運動組織パトゥサン解放戦線、謎のスパイ組織グリーンフェアリーを巻き込んだ多層的な情報戦へと発展する。
設定の選択がいくつかの点で際立っている。舞台を韓国ではなく架空の熱帯国家に置いたことで、韓国資本の植民地的な資源開発と現地政府の腐敗という構図が浮かび上がる。LKという財閥の描写には、実在の韓国財閥への批評的な目線が重なって見える。また「カウンターウェイト(平衡錘)」というタイトルが示すように、軌道エレベータという装置は単なる舞台装置ではなく、権力と対抗力のバランスという物語の主題を物理的に体現している。
チェ・ガンウの正体についての謎は、中盤で意外な方向へ転じる。そこで明かされる真相は、スパイSFの文脈で語られてきた情報戦の意味を根底から変える仕掛けになっており、それ以後の展開を別の目で読み直したくなる。
終盤、高軌道での微重力下戦闘が待っている。物語の前半で丁寧に積まれた政治的・企業的な複雑さが、ここで一挙に身体的なスペクタクルへと変換される。SF的な設定が情報戦という骨格と最後に噛み合う瞬間はえもいわれぬ快楽がある。
韓国SFは近年、チョン・ソヨンやキム・チョヨプの翻訳を通じて日本でも読まれるようになってきた。デュナはその先駆者であり、韓国SF最初の世代の書き手として別格の存在感を持つ。本書はその入門に最もふさわしい長篇だと思う。
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