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【読書ログ】精霊を統べる者【歴史が「もし」を飲み込んだとき】

「もし歴史が、別の扉を開いていたら」という問いは、SFとファンタジーが長く抱えてきたものだ。だが、その「もし」がどこに置かれるかで、物語が見えてくる世界はまったく変わる。P・ジェリ・クラークの『精霊を統べる者』は、その問いをヨーロッパでも北アメリカでもなく、エジプトに投げかける。その選択自体が、すでに一つのメッセージだと思った。

舞台は1912年のカイロ。四十年前、伝説の魔術師アル=ジャーヒズが異界への扉を開いたことで、ジン(精霊)をはじめとする超自然の存在が人間社会に流れ込んだ。エジプトはいち早くジンと協約を結び、魔法と科学を融合させた近代国家として繁栄している。女性参政権をどの国よりも先に制定したのも、このエジプトだ。一方でイギリスは精霊革命に乗り遅れ、かつての帝国主義的な覇権は大きく後退している。

この世界設定が読んでいて気持ちいい。歴史の「勝者」と「敗者」がひっくり返ることの爽快感というより、「そういう世界もあり得た」という世界への説得力がある。著者のP・ジェリ・クラークはコネチカット大学で歴史学を教える研究者でもあり、その土台があるからこそ改変が恣意的にならない。魔法が混じり込んでいても、世界の手触りは確かだ。

物語を動かすのは、エジプト魔術省に勤める女性エージェント、ファトマ・エル=シャーラニ。ある夜、黄金の仮面をつけた謎の人物が秘密結社の集会に現れ、その場にいた者たちを皆殺しにした。「アル=ジャーヒズが戻ってきた」という噂が街に広がるなか、ファトマは新人の相棒ハディアとともに捜査に乗り出す。

ファトマとハディアのバディ関係が、物語の読み心地を大きく左右している。ファトマは経験を積んだ分だけ斜に構えていて、ハディアの純粋な熱量を少し眩しく思っている。二人の間にある距離感と、それが徐々に縮まっていく過程が丁寧に描かれていて、ミステリとしての謎解きと並行してこちらにも引っ張られ続けた。ファトマの恋人シティの存在も効いていて、三者の関係が終盤に向けて複雑な意味を持ち始める。

謎の怪人が引き起こす事件はエスカレートし、ジンたちを強制的に操る様子が明らかになっていく。ファトマが追うのは正体だけでなく、「なぜ今、なぜここで」という動機の核心だ。明確な敵と味方の構図が崩れ、さまざまな思惑が交錯していくあたりは、単純なアクション活劇に終わらせない作者の意志を感じた。

受賞歴を見るとネビュラ賞、ローカス賞、イグナイト賞、コンプトン・クルック賞の四冠で、「SFが読みたい!2025年版」の海外篇でも1位に輝いている。評価の高さに違わず、ページをめくる手が止まらない娯楽性と、じっくり考えさせられる主題の重さが同居している。

近年の海外SFは、語り手の立ち位置を問い直す動きが顕著だ。誰の視点から未来や歴史を想像するか。その問いに、この作品は一つの鮮やかな回答を示している。エジプトを中心に据えた世界で、女性エージェントが謎を解く。それだけで、既存のSFの「当たり前」がいくつか更新される。

読み終えて残るのは、物語の興奮だけでなく、「中心はどこにでも置ける」という感覚だ。自分が当然だと思っていた歴史の形が、実はずいぶん偏ったものだったのかもしれないと気づかせてくれる本は、SFに限らず貴重だと思う。



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