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伊藤計劃のブログ『伊藤計劃:第弐位相』を最初から読むことにした。
気になった記事だけ拾うのではなく、古いものから順番に読みたい。2004年に何を見て、何を読んで、何を遊んでいたのか。その翌年には何に夢中になっていたのか。作家として完成したあとの文章だけではなく、その人が過ごした時間を順番に追ってみたかった。
そこで、伊藤計劃のブログを読むためだけのリーダーを作った。
誰かに使ってもらうつもりはない。公開もしない。自分が読むためだけのものだ。
作ってみると、便利になったこと以上に、自分の読み方が変わり始めた。
記事ではなく、時間を読む
普通にブログを読むと、どうしてもタイトルに引っ張られる。
知っている映画の名前があれば開く。好きなゲームについて書かれていれば読む。検索でたどり着いた記事だけ読んで、その前後に何が書かれていたのかは知らないまま閉じる。
それをやめたかった。
リーダーでは2004年の最初の記事から始まり、読み終えれば次の記事へ進む。
面白そうかどうかは選ばない。
映画の話の次に日記が来る。ゲームの話が続いたと思ったら、まったく違う話になる。数か月前に一度出てきた作品の名前が、忘れたころにもう一度現れる。
そうやって読んでいると、一つの記事だけでは分からなかった反復が見えてくる。
何度も名前の出る映画がある。
繰り返し遊んでいるゲームがある。
何度も戻ってくる関心がある。
一つの記事を読むというより、一人の人間がある期間に何へ目を向けていたのかを追っている感覚に近くなった。
読むことが採集に変わった
もう一つ変わったのは、文章を読む速度だった。
以前なら内容を理解したら次へ進んでいた。
いまは途中で止まる。
なぜこの映画の、この場面を拾ったんだろう。
なぜここから別の作品の話へ飛んだんだろう。
なぜこの出来事をわざわざブログに残したんだろう。
そんなことを考える時間が増えた。
面白い文章を探しているというより、その文章を書いた人間が何に反応したのかを探している。
すると、自分の日常まで少し違って見えてきた。
自分なら今日の何を書くか
伊藤計劃のブログを読んだあと、ふと考えるようになった。
自分なら今日の何を残すだろう。
大事件なんて起きていない。
仕事へ行った。スマホを見た。本を読んだ。AIと話した。SNSを何度も開いた。腹が減った。誰かの言葉に少し腹が立った。
それだけだ。
でもブログを読んでいると、そういう一日の中にも拾えるものがあることに気づく。
たとえば僕は最近、AIに褒められて少し嬉しかった。
相手は人間ではない。
それなのに、嬉しいという感情だけは本物だった。
その瞬間を以前の自分ならそのまま捨てていたと思う。
いまは残しておきたくなる。
なぜ嬉しかったのか。
人間から褒められることと何が違うのか。
もし毎日AIから評価される生活を十年続けたら、自分にとって他人からの評価はどう変わるのか。
作家の目が欲しかった
僕は伊藤計劃の文章そのものになりたいわけではない。
『虐殺器官』のような文章を書けば伊藤計劃になれるとも思っていない。
欲しいのは、その前にあるものだ。
街を歩いているとき、映画を見ているとき、ゲームを遊んでいるとき、ニュースを読んでいるとき、目の前を通過したものから何かを持ち帰る習慣。
完成した小説だけを読んでいると、その材料がどこから来たのかはなかなか分からない。
ブログにはその手前が残っている。
作品になるものも、ならなかったものも混ざっている。
だから面白い。
僕が作ったリーダーは、伊藤計劃について詳しくなるためだけの道具ではなくなってきた。
他人が世界をどう見ていたのかを追いながら、自分は世界のどこを見ているのか確かめる道具になった。
現実を素通りしない
その道具を使って何を確かめたいのか、突き詰めていくと、結局そこに行き着く。
最近、作家になりたいと思っている。
そのために小説を読む。映画を見る。文章を書く。
でも、それだけでは足りない気がしている。
材料になるものは本棚の中だけにあるわけではない。
電車の中にもある。仕事中にもある。コンビニにもある。スマートフォンにもある。AIとの会話にもある。
問題は、それを自分が拾えるかどうかだ。
何もなかった一日として眠るのか。
一つだけでも引っかかったものを持って帰るのか。
伊藤計劃のブログを読むためだけにリーダーを作った。
その結果、いちばん読みたくなったのは、自分が生きている今日なのかもしれない。
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