小説を読む理由は、物語を楽しむためだと思っていた。
誰かが何かを望み、事件が起き、状況が変わり、最後には何らかの場所へたどり着く。小説について語るとき、人はたいてい「ストーリーがおもしろかった」「展開が遅かった」「後半から一気に読めた」というような言葉を使う。
けれど、自分の好きな本を並べてみると、その説明では足りない。
むしろ、話がいっこうに進まない本にこそ惹かれてきた。
架空の都市の地理が何ページにもわたって語られる。存在しない国の歴史が延々と綴られる。宗教、企業、行政制度、通信網、食文化、俗語、服装、建築。物語だけを追うなら、すべて削っても困らない情報のはずだ。
それなのに、そこがおもしろい。
考えてみれば、SFを読んで興奮する瞬間もそうだった。
主人公が敵を倒す瞬間より、その社会では人間の記憶が売買されると知った瞬間のほうが記憶に残る。宇宙船が爆発する場面より、その世界で宇宙船がどんな法律のもとに運航され、誰が所有し、乗組員が何を食べて生きているのかを知りたくなる。
未来都市が登場すれば、そこで暮らす名もない会社員の一日を想像してしまう。
このコンビニには何が並んでいるのか。この社会にも家賃はあるのか。病院に行けば何をされるのか。仕事をクビになった人間はどこへ行くのか。子どもは学校で何を教わるのか。
物語の中心から離れるほど、知りたいことは増えていく。
たぶん自分は、小説の中で起きている事件だけを見ているのではない。
事件が起きていない場所まで、見てしまいたいのだ。
主人公が右へ曲がったなら、左の先に何があったのか知りたい。作中で名前だけ出てきた都市があれば、そこへ行ってみたい。登場人物がニュースを眺めているなら、その日のニュースを最初から最後まで読みたい。
物語が一本の道だとすれば、そこから見える脇道ばかりが気になっている。
だから、百科事典のような小説に惹かれる。
普通なら説明過多として切り捨てられそうな部分が、こちらにとっては本体になる。架空の歴史に二ページ費やされてもいい。存在しない機械の仕組みを延々と語られてもいい。作中世界の政治制度について脚注が始まってもいい。
話が進まなくても、困らない。
その二ページこそが、それまで書割にすぎなかった背景に奥行きを与えるからだ。
映画のセットなら、画面に映る建物は正面だけで成立する。だが小説を読んでいて、その建物の裏側まで作り込まれていると感じる瞬間がある。
扉を開ければ部屋がある。引き出しを開ければ書類が入っている。その書類には、作中で一度も使われることのない規則が書かれている。
そこまで想像できたとき、架空の世界はもう舞台装置ではない。
世界が物語のために存在しているのではなく、その世界でたまたま物語が起きているように感じられる。
自分がSFに求めているものの一つは、おそらくこれだ。
未来を言い当ててほしいわけではない。毎回驚くようなどんでん返しが必要なわけでもない。主人公に感情移入できなくても、さして困らない。
知らない世界を、しばらく歩かせてほしい。
できれば観光名所だけでなく、住宅街まで連れていってほしい。役所の窓口を見たいし、スーパーの棚も見たい。路地裏の落書きも、百年前の戦争について書かれた教科書も読みたい。
そんなものを延々と見せられて、喜ぶ読者がいる。
少なくとも、ここに一人いる。
だから、物語がほとんど動かない小説を読んで、とんでもなくおもしろかったと言うことがある。
何が起きたのかと問われると、困る。
大したことは起きていない。
ただ、そこには世界があった。
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