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災害が起きると、何かしたくなる。水を送る、食料を送る、現地へ行く。困っている人間がそこにいるのなら、何もしないより動いたほうがいいと、体が判断する。
その衝動自体は正しい。否定する気はない。ただし、善意から発した行動が、そのまま相手の利益に変換される保証はどこにもない。
日本赤十字社は、個人からの救援物資を原則として受け付けていない。輸送と配付には時間とコストがかかり、現地で公平に分配することも難しいからだ。被災者が必要とするものは刻一刻と変わっていくので、届いた頃にはもう誰も欲しがっていない、ということすら起こる。内閣府もまた、準備なしにボランティアとして現地入りすれば、支援どころか被災地の負担を増やしかねないと注意を促している。
段ボールを一箱送った人間には、支援したという事実だけが残る。受け取った側には、箱を開け、中身を確認し、仕分け、保管し、必要な場所へ運ぶという労働が残る。送り手の中で完結した善意が、受け手の中では仕事として始まる。ここに、奇妙な非対称が横たわっている。
仕事なら結果で裁かれる。商品なら使った人間がレビューを書く。政策なら税金の使途として検証される。店を経営して赤字を出せば、「客を喜ばせたかった」という気持ちだけで帳簿の数字が動くことはない。なのに善意だけは、動機そのものが評価そのものになる瞬間を持つ。助けようと思った、悪気はなかった、よかれと思ってやった。結果として相手の仕事を増やしていたとしても、この三つの言葉はそれを覆すだけの力を持っている。
ならば、善意にも監査を入れてみたらどうなるか。人間の気持ちは採点せず、行動によって相手の状況がどれだけ改善されたか、それだけを測る。そういう社会を想像してみる。
善意に点数がつく
災害が発生する。ある人は被災地へ水を送った。だが現地にはすでに十分な水があり、倉庫には大量のペットボトルが積み上がっていた。届いた水を受け入れ、確認し、保管するためだけに人手が割かれた結果、善意スコアはマイナス3になる。
別の人は一万円を寄付し、その金は必要な物資の調達に回った。プラス8。
別の人は仕事を休んで現地へ向かったが、受け入れ態勢は整っておらず、宿泊も食料も現地で自力調達する羽目になった。マイナス12。
家でニュースを眺めていただけの人間は、ゼロ。
行動した者のほうが、何もしなかった者より低く評価される。そんな逆転がここでは起こりうる。助けようとしたのに、本人は納得できない。だがシステムはこう答えるだけだ。あなたが何を望んだかは計測していません、計測しているのは、あなたが何を発生させたか、それだけです。
冷酷に見える仕組みだが、社会は少しずつ形を変えていく。
善意の暴走がゆるやかに消えていく
災害が起きても、人はもう即座に物を送らなくなる。まず自治体の発表を見て、支援団体の募集内容を確認し、指定されていない物資は送らず、専門知識がなければ現地には向かわない。支援の効率は上がっていく。
実際、内閣府も災害ボランティアについて、現地のニーズを確認し、ボランティアセンターと連携して行動するよう案内している。仕事が見つからなくても無理に支援先を探さないことまで、すでに規範の一部になっている。
善意は行動の理由であることをやめ、行動を始める前の、ただの動機にまで後退する。助けたいから調べる、必要なら動く、必要でなければ動かない。ここまでは悪くない。むしろ理想的ですらある。問題は、この仕組みが完璧に機能してしまった、その先で始まる。
人間は点数の取り方を覚える
善意スコアが社会に根を張る。最初は本人にしか見えない数字だったものが、やがてプロフィールに表示され、企業が採用時に参照し、マッチングサービスに表示され、政治家は選挙で自分の平均スコアを掲げるようになる。善意の結果を測るために作った数字が、いつのまにか人間そのものを測る数字にすり替わっている。
すると、攻略する者が現れる。最も効率よく点が稼げる寄付先、一時間あたりの加点が大きいボランティア、失敗率が低く確実にプラスへ振れる支援。善意スコア専門のコンサルタントまで登場する。
そしてここで、別の亀裂が入る。金を持つ者が、圧倒的に有利なのだ。一億円を寄付できる人間と、一万円しか出せない人間を、同じ物差しで測っていいのか。制度は改良され、寄付額ではなく資産に占める割合で測ることになる。すると今度は、システムが善意を公平に測るために、まず人間の資産を知る必要に迫られる。
時間についても同じ問題が起きる。休日を丸ごと使った人と、介護や育児の合間を縫って一時間だけ参加した人を、活動時間だけで比較するのは公平ではない。ならば自由時間も計測し、健康状態も、家庭環境も、仕事も収入も必要になる。その行動が、その人にとってどれほどの負担だったのか、そこまで踏み込まなければ本当に公平な善意スコアにはならないからだ。
善意を正確に測ろうとするほど、システムは人間の生活の内側まで知らなければならなくなる。監査対象は善意だったはずが、いつの間にか人生そのものが監査対象にすり替わっている。
十年前の善意が、ある朝マイナスに転じる
それでも解決できない問題が、まだ残っている。結果を、いつ確定するのかという問題だ。
今日、一億円を使って食料を配り、千人が助かったとする。プラス1000。だが大量の無料物資が流入したことで地域の商店から客が消え、一年後に何店舗かが閉店し、五年後には地域から商店そのものが減り、十年後には高齢者が日用品を買える場所がなくなったとしたらどうか。
十年前のあの支援は、本当に成功だったのか。システムが長期的な結果まで評価する以上、過去のスコアは書き換えられ続けなければならない。プラス1000がプラス700になり、プラス200になり、やがてマイナス80になる。朝目覚めると、十年前に行った善意によって、今日の自分の評価が下がっている。善意には、もう時効がない。
何もしない人間が勝つ
ここまで来れば、合理的な人間は必ず気づく。何もしなければいいのだ。行動には失敗がつきまとう。寄付先を間違えるかもしれない、物資が余るかもしれない、現地へ行けばただ邪魔になるだけかもしれない。助けた相手に長期的な悪影響を与える可能性すら、ゼロではない。だったら動かなければ、それでゼロ点は確保できる。
災害が起きても誰も動かず、自治体の発表を待ち、専門家の判断を待ち、システムの評価を待つ。誰にも迷惑をかけていない。同時に、誰も助けていない。善意の暴走を止めるために作った制度が、善意そのものを止めてしまった。
そこで制度は、最後の改修を受ける。
何もしないことも、採点する
助けられたのに助けなかった場合も、評価対象に組み込まれる。目の前で人が倒れていて救命措置ができるのに、何もしなければマイナス。災害支援に必要な技能を持ち、現地から募集があり、参加できる時間もあるのに行かなければ、これもマイナス。
これで、ゼロ点への逃亡はできなくなる。だが、その瞬間から別の問題が始まる。行動して失敗しても減点、行動しなくても減点。ならばどうすればいいのか。システムに聞けばいい。
あなたに最適な善意があります
朝、スマートフォンに通知が届く。
現在地から800メートル先で支援が必要です。あなたの技能、健康状態、勤務予定、現在地、過去の活動実績を考慮した結果、この支援への参加を推奨します。予測善意スコア、プラス6.4。
別の通知も来る。
災害支援基金への3000円の寄付を推奨します。現在の収入と資産から算出した適正額です。予測善意スコア、プラス2.1。
人は従う。それが、失敗する可能性の最も低い道だからだ。そのうち、人間がわざわざ支援方法を考える必要さえなくなる。誰に、何を、どれだけ、いつ、どの方法で。膨大な過去データから、システムが計算する。人間はただ、提示された行動を実行するだけの存在になる。
善意が、必要なくなった
この社会を設計した人々の目的は、もっとささやかなものだった。善意だから許される、という状況をなくしたかっただけだ。助けようとした人間を罰したかったわけではなく、善意の押し付けによって助けられる側が負担を背負う、その構図を減らしたかっただけだった。
だから結果を測った。公平にするために、その人の事情まで測った。長期的な影響まで追跡し、何もしないことによる損失も計算し、失敗を減らすために最適な行動を提示した。一つひとつの改修に理由があり、どこにも悪意はない。
その結果、誰かを助けるときに人間が考える必要はなくなった。助けたいと思う必要さえ、なくなった。通知が来て、従い、誰かが助かり、スコアが増える。それはおそらく、善意に任せていた頃よりはるかに効率的な社会だ。不要な物資は届かず、ボランティアが殺到することもなく、必要な場所へ必要な人間と資源が、必要な量だけ送られる。
善意の押し付けはなくなった。同時に、善意もなくなった。
善意を評価できる世界を作ったら、善意は必要なくなった。
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