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アイコンにしないために——伊藤計劃を追いかけ続ける理由

伊藤計劃が好きだ。作品を読むだけでは足りず、昔のブログまで遡って、何を読み、何を観て、何を遊んでいたのかまで知りたくなる。そのくらいには好きだ。

けれど、何がそんなに好きなのかと自問すると、答えに詰まる。語ろうと思えば語れないわけではない。『虐殺器官』や『ハーモニー』について論じることも、文体や題材、映画やゲームから受けた影響を並べ立てることもできる。ただ、そうやって言葉を積み重ねるたびに、何かが違うという感覚がつきまとう。

理由を一度整理してしまえば、伊藤計劃という人間を理解した気になってしまうからだ。この作家はこういう人だった、この作品の魅力はここにある、この発言の裏にはこういう思想がある。そうやって説明が完成した瞬間、目の前の文章よりも先に、自分の中で出来上がった伊藤計劃像を通して読むようになる。人間ではなく、アイコンを見るようになる。

たぶん、それが嫌なのだ。要約された言葉を挟むよりも、伊藤計劃自身が触れていたものに直接あたっているほうが、彼を人間のまま留めておける気がする。

だから最近は、伊藤計劃が残したものをひたすら漁っている。小説だけでは終わらない。ブログを読み、昔観ていた映画を調べ、遊んでいたゲームを探し、名前の挙がった本を手に取る。ひとつ知るごとに、分からないものがもうひとつ増えていく。その終わらなさが、かなり楽しい。

考えてみれば、好きな作家を追い続けるという行為は、理解するためだけの営みではないのかもしれない。全部分かってしまったと思った時点で、探索は終わる。逆に言えば、説明できない部分が残っているからこそ、次の文章に手が伸びる。知らない作品名が出てくれば調べ、映画を観て、本を買い、ゲームにまで触れてみる。好きな理由を探しているはずなのに、探すほどに対象は広がっていく。

伊藤計劃が好きな理由は、いまだに説明できない。以前はそれを、自分の言葉が足りないせいだと思っていた。今は少し違う見方をしている。説明できないままでいたい気持ちもあるのだと思う。分からないところが残っている限り、まだ追いかけていられるからだ。



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