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AIに個人のスキルを学ばせる社会は正当化できるか

AIが社会の土台になりつつある今、個人的なスキルをAIに学ばせることを、社会としてどこまで受け入れるべきかは大きなテーマである。これは技術の話にとどまらず、働きかた、文化、尊厳にかかわる問題でもある。結論から言えば、条件つきで受け入れるべきだと個人的には思う。社会全体にとっての利益が大きい一方で、個人の損や不公平が起きうるからだ。受け入れるなら、先に利益と負担の分けかたの決まりを整える必要がある。

個人的なスキルをAIに学ばせることが生む公共的な利益は大きい。熟練者のコツ、失敗しやすい点、判断のつぼ、場に合わせた言い回しや気配りは、教科書にしにくい知恵であり、暗黙知として散りやすい。AIがそれを学び、だれでも使える形で広く配れるなら、学びの差や地域の差を小さくし、初心者の壁を下げ、社会全体の生産性や安全性を高められる。医療、介護、保守点検のように人手が足りない分野では、熟練者の知を共有できる仕組みが現場の負担を軽くする助けにもなる。スキルは社会に回ってこそ価値が増す面があり、AIはその回りかたの速さと広さを大きくできる道具である。

個人にとっても、AIに学ばせることがいつも損になるとは限らない。自分のノウハウが支援機能として返ってくるなら、くり返し作業をAIに任せ、より考える仕事に集中できる。技術を伝える担い手が減っている今、AIを通して知が残ること自体が、個人の誇りや足あとになる可能性もある。スキルは属人化しやすく、本人が引退したときに消えやすい。そこに残せる道ができるのは前向きな変化である。

ただし、受け入れるべきだという主張が楽観だけで進むのは危険である。最大の心配は、スキルの提供が実質の搾取に変わることだ。長い年月をかけて作った技術や文体、判断のくせが吸い上げられ、本人の収入の機会が減り、そのかわりに会社や仕組みだけがもうかる形は起きうる。さらに、スキルには人格や生活の歴史がしみこむ。文章、会話、教えかた、客への対応には、価値観や弱み、交友関係の切れはしが混ざりうる。本人はスキルだけを出したつもりでも、結果としてプライバシーや尊厳が傷つく危険がある。もう一つ、社会の多様さが弱まる心配もある。AIが平均的に正しい型を強めると、少数派の作法や地方の文化、尖った表現がノイズとしてうすまる可能性がある。

ゆえに、条件つきで受け入れるという立場が重要である。第一に、本人の選びが実質として守られることが必要だ。同意が形だけであってはならない。仕事を得るために同意せざるをえない状況があるなら、それは自由な意思とは言いにくい。提供を断っても不利益にならない仕組み、いつでも取りやめできる仕組み、提供の範囲を細かく決められる仕組みがいる。第二に、対価と帰属が見えることが必要だ。スキルが価値を生む以上、提供した人に何らかの形で利益が戻る設計であるべきだ。お金だけでなく、使われた状況が見えること、名前の記録、研究に使うかどうか、商用に使う範囲などを決まりとして明確にする必要がある。第三に、個人を守る技術と制度がそろうことが必要だ。データの最小化、用途のしばり、学習のあとにだれかが特定される危険の点検、監査、やぶったときの罰まで含めた守りが整って、はじめて社会としての正当性が成り立つ。

ここで大切なのは、スキルの提供を善意の寄付か会社への献上かという二つに分けないことだ。社会にとって役に立つ知の共有は、公共財に近い性質を持つ。だから図書館や道路と同じく、決まりと運用の仕組みがいる。たとえば、個人が自分のスキルをあずけられる信託や協同組合のような中間の組織があってよい。そこが条件の交渉や監査を担い、個人は重い交渉の負担を持たずに参加できる。あるいは国や自治体が、教育、医療、防災のように公共性が高い用途にしぼり、透明さのある枠組みで提供を集める道もある。要点は、だれが決まりをにぎるかである。技術だけが先に走れば、決まりは強い側の都合で固まりやすい。社会として受け入れるなら、決まりの主導権は社会の側が持つべきである。

スキルがAIに学ばれる未来は、もはやさけられない次元まで到達している。だから拒むか受け入れるかではなく、どう受け入れるかが問われる。個人のスキルは単なる材料ではなく、人生の時間そのものである。社会がそれを使うことを受け入れるなら、使った分だけ社会が責任を負い、利益を返し、傷つけない仕組みを用意するべきだ。条件を満たす形での受け入れは、社会の知を厚くし、次の世代の学びを速め、個人が自分のスキルのあつかいを主体的に決められる未来につながるのである。



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