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夕暮れの草地を想像してみる。村の誰もが牛を放てる共有の牧草地。最初はのどかだ。草は十分にあり、牛は太り、村は豊かになる。ところが、ある日だれかが考える。「もう一頭増やせば、うちだけ得をする。牧草地の傷みは皆で負うのだから」。同じ計算を、別のだれかも、また別のだれかもする。結果として増えた牛は草を食い尽くし、土地は痩せ、最後には誰も得をしない。ハーディンの「共有地の悲劇」は、この短い寓話の中に、人間の合理性が社会全体の非合理へ転ぶ瞬間を描き出した。
ハーディンが突きつけたのは、道徳の欠如というより、仕組みの欠如だ。各人が自分にとっての利益を最大化しようとするとき、費用の一部が他者に薄く広く押し付けられる状況では、誘惑に抗うことが難しい。しかも、その誘惑は小さい。「頭だけ増やす程度の小さな最適化が積み重なり、気づけば取り返しのつかない損耗になる。ここに悲劇の厄介さがある。悪意がなくても、善意があっても、設計されていない場は摩耗していく。
ただし、この議論が強いのは、共有が誰でも自由に使える開放状態(オープンアクセス)として放置されているときだ。実際の村や漁場や森林には、古くから慣習、監視、罰則、利用枠、季節ルールといった細かな約束事があり、共有であることと無秩序であることは同義ではない。共有はしばしば、見えにくい規律の上に成り立っている。ハーディンの寓話は、そうした規律が失われる、あるいは最初から作られていない状況を鋭く切り出した一方で、共有は必ず悲劇になると読まれると、現実の多様さを取りこぼす。
この取りこぼしを丁寧に拾い直した研究の流れとして、エリノア・オストロムの仕事がよく知られている。彼女は、共有資源がうまく維持されている事例を各地で観察し、成功には条件があると示した。境界(誰が利用者か)が定義され、ルールが地域の実情に合い、監視と段階的な制裁があり、対立解決の場があり、外部権力がその自治をある程度認める。言い換えると、悲劇を回避する鍵は私有化か国家管理かの二択ではなく、当事者が合意し運用できる制度設計にある。
それでもハーディンが今も読み継がれるのは、現代が境界の薄い共有地を急速に増やしているからだ。たとえば大気や海洋、気候は国境を超えた共有資源で、排出や乱獲のコストは世界に分散する。便利さは手元に、負担は遠くに。ここでは個々の企業や国家が合理的に振る舞うほど、全体としては危うくなる。ハーディンが描いたのは牧草地の話だが、そこには地球規模の協調問題の骨格がすでにある。
同時に、私たちの暮らしは別種の共有にも依存している。知識、言語、インターネットのプロトコル、オープンソース、研究成果といった非競合的な資源は、使っても減らないか、むしろ増えることすらある。ここでは共有は悲劇ではなく、創造のエンジンになりうる。だからこそ、共有地の悲劇を手にしたとき、まず問うべきは共有そのものの是非ではなく、その資源は何で、競合性はどれほどで、境界は引けるのか、誰が当事者で、どんなルールが作れるのかだ。悲劇は運命ではなく、条件の組み合わせで起こる。
では私たちは何を学べるのか。ひとつは、善意の呼びかけだけでは足りないということだ。節度は美徳だが、制度の後ろ盾がない節度は、競争の圧力に負けやすい。もうひとつは、強い統制だけでも足りないということだ。現場の事情を知らない画一的な規制は、形だけ守られて実態が崩れることがある。必要なのは、現実に即したルール、監視と透明性、違反に対する公正なコスト、そして当事者が納得できる意思決定の手続きだ。つまり、我慢ではなく設計である。
ハーディンの寓話が残す余韻は苦い。私たちは短期の小さな得のために、長期の大きな損を選びがちだ。けれど、その苦さは諦めの味ではない。悲劇が仕組みの欠陥から生まれるのなら仕組みを改める余地がある。共有地を守るとは、だれかの善意に期待することではなく、だれかの悪意を前提にすることでもない。人間の合理性を、そのまま社会の持続可能性へ接続できるように制度を編み直すことだ。牧草地の夕暮れを荒れ地で終わらせないために。
きょうのニュース解説
ナイトスクープが映し出した社会的検査装置としての側面について考察する。2026年1月23日放送回において、12歳の長男が1日だけ次男になりたいと願う依頼は、SNS上で激しい批判を招いた。放送では、せいやが家事に奮闘する演出が強調され、これを受けたネット社会はヤングケアラーというレッテルを手に両親を激しく非難した。しかし、実際の当事者の生活実態は外部からの認識と大きく異なっていたのである。
2月3日になって長男自身が語ったのは、親族への心配と自分に向けられた過度な関心への違和感だった。社会正義に酔った大衆による救済は、逆説的に本人にとって新たな苦痛となっていた。放送から6日後、彼は学校の保健室で1日を過ごすこととなる。周囲から「大丈夫なのって毎日聞かれるのがつらい」状況に追い込まれたからである。
この騒動が示唆するのは、多様な家族形態と教育方針を正解と不正解で二分する思考様式の限界である。社会的課題としてのヤングケアラー問題は実在するが、その現実とこの家庭の個別の事情は丁寧に区別されなければならない。一種の正義の暴力としてのネット批判が当事者に何をもたらしたのか、その本質を問い直す必要がある。
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