どうやら僕は名前も知らないお姉さんに「恋」をしたらしい。むろん、「恋」といっても一生を添い遂げるだとか下腹部あたりに血液がたまるだとか、そういう類の恋ではなく、いや、完全に無いとは言い切れないけど、もっとこう、見窄らしい蛍光管の光に照らされた有象無象の美術品の中に、足を止めずにはいられないほどの光彩を放つ作品を見つけだしたときに表出するような芸術的意味合いにおいての「恋」だった。つまるところ「美しい」っていう意味だ。
目の前で男と女が取っ組み合いの喧嘩をしているさなか、一糸まとわぬ姿で二人の間に立って、必死に何かを訴えかけているお姉さんの後ろ姿をふすまの隙間ごしに見た。長く艷やかな黒髪は肩までまっすぐ伸び、白磁のような鋭い輝きを発する体躯からは、程よく肉付きの良い四肢が慎ましやかに生えている。
僕は夜の淡光に導かれる羽虫のごとく禁断の扉を開けると、訥々と言葉を発した。
「なにを、しているの?」
女が何かを言って外に飛び出す。男がその後を追う。
ぷっぷー。どこん。
乾いた衝撃音が響いた。コンクリートに鋼鉄の塊が突っ込んだような音だった。
僕はその音の行方など気にも止めなかった。ただ僕の顔をじっと見つめているお姉さんに見とれていたから。そして、今すぐにでも吐露しないと頭の先から足先まで細切れになってしまいそうな感情が発露した。
しかし、それを伝えることは叶わなかった。
六畳一間の世界が割れる。卵が落ちて散らばるみたいに粉々になる。お母さんのお気に入りだった真っ白なお皿が割れ、お父さんが毎日コーヒーを飲むために買ってきた、猫の顔がプリントされたマグカップが割れ、僕が一緒に寝ていた子猫が割れる。
ありとあらゆるものが奈落へとこぼれ落ち、あとに残ったのはお姉さんと僕の二人だけ。
「何故?」
重低音を効かせた声が、お姉さんの口から紡がれた。僕はその疑問が、ふすまから出てきたことに対するものではなく、感情を伝達できなかったことに対するものだということを理解した。その声は、僕自身の声だったから。
「真の美に触れ言語野の機能が消失したら」
お姉さんは首を横に振った。
「それは違うわ。君は声を掛けることができたもの」
僕は再び応えた。
「なら、感情を言語化する能力自体がなかったから」
お姉さんはまた首を横に振った。
「それも違うわ。君は少なくとも恥を感じることができる年齢だっだもの」
「じゃあ!」
僕はお姉さんをキッと睨んだ。
「有り体に言えばそれはひどく単純な答え――君が単なる臆病者――というわけで、その日から君は、もちろん僕も、灰色の世界の住人だということよ」
お姉さんはひどく淡々とした声で応えると、それ以上は何も言わずに僕に背を向け崩れ落ち、後を追うように僕もぱりんと割れる。
二つの破片が地の底へと至る径で完全に溶け合ったとき、分かちがたい永遠の愛を誓ったかのように混じるとき、それはすなわち覚醒の符牒だった。
目を開けると灰色の世界が眼前に広がっていた。舞台の書き割りみたいないまいち現実感のない天井には、いつ付けられたのか分からないしみが幾重にも重なって、渦をぐるぐる巻き続けている。
僕は布団から這い出ると、洗面所へと向かった。
チリひとつ落ちていない床を歩き、辿り着くと、汗で濡れた衣服を鈍重な手つきで脱ぎ始めた。
「ふーんふーんふふふふーんふーん」
子供のときにテレビからよく流れていた曲のイントロを口ずさむ。名前すら思い出せない――思い出そうにも、頭が上手く働かない――けど、ひどく気分が高揚してくるようなサビに到達する前に服が脱ぎ終わった。
灰色の衣服を洗濯機のなかにぶちこんで、洗面台の縁に置いてある丸っこい錠剤を口に放り込み、水で流し込む。
天井のシミを見つめる。獰猛にうねっていた黒い何かは、次第に点と点の単なる羅列に変化し、しばらくすると、まともな思考が戻ってきた。
脂汗を拭うと、壁に掛けられていたカレンダーのきょうの日付に、マジックでバツを付ける。
「また、あの夢か……」
夢を見始めてからきょうまで五千四百八十七回目に付けられたバツとともに、朝を迎えた。年数にして約十五年もの間である。長いと言われれば長いし短いといわれれば短い期間であった。ただ一つ確定的なことは、休む暇もなく毎朝このくそったれな夢を見続けていたということだ。
置き時計に視線を配ると、針葉樹みたいに刺々しい短針は八を指しており長針は十二を指していた。いつも通り、仕事に向かうにはぎりぎりの時間だった。ゆったりとした時間を過ごすことで、本来存在し得ない無駄な装飾との遭遇を避けるためには守らなければならない行動原理だ。
身支度を素早く整えると、サイドバッグを持ち、薄っぺらい扉をあけて外にでる。
桜の花びらが舞っていた。花弁の一枚一枚が顔にぶつかる。とりたてて感慨もなく手で払いのけると、閑静な住宅街を足早に歩き出した。
周りを見渡すが人っ子一人歩いていない。動物すらいない。そんな空間に男の足音が響き渡る。かつりかつりびゅーかつり。時折風の音にかき消されていた。
歩き始めて三十分立ったころ、僕は喫茶店の前に立っていた。二三度深呼吸をしてから硝子扉に映る自分の姿を確認する。身支度は崩れていない、問題ない。そして僕は扉を開けた。
日が沈み宵闇が訪れた頃、僕は仕事を終えて帰路についた。
桜並木のゲートのくぐりつつ虚空を仰ぐ。月は雲に隠れて見えず、大粒の雨がぽつりぽつりと顔を叩き始めた。折りたたみ傘をサイドバッグから取り出し、素早く頭上に広げると、水たまりを避けて駆け出す。
ふと、切れかけの電灯のたもとに小さなダンボールが置かれていることに気づいた。
鈴懸の樹の吐息が明星を立ち上る予感を孕んだ箱は、徐々に強くなる雨脚の中で僕を立ち止まらせた。中を覗き込むと子猫が震えている。ただ、その瞳だけはじっと僕を捉えていた。
僕はさしていた折りたたみ傘をダンボールに置き、両手に猫を抱えた。
それは、ふわりと甘い香を放っていた。手のひらの中で小刻みにうごめく。僕はハンカチをポケットから取り出し子猫を包むと、駈け出した。
「にゃぁお」
弱々しい猫の声が水たまりを蹴飛ばす音に消えていく。
雨脚は次第に弱まり月が雲間から姿を現す。
月明かりが、あの月明かりが、僕の顔を照らす。
静まり返った夜の町で、僕は目を細めた。
世界に、色が、つき始めたのだ。
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