神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。 変えるべきものを変える勇気を、 そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。 『二ーバーの祈り』
——十年前。
少年はきょうのご飯をどうするか考える時間が好きだった。何もしていないという空白がなくなるからだ。
ヨレヨレの千円札とミミズののたくったような字で書かれたメモ書き——『好きなの買ってきていいからね!』もう何回見てきかのカウントすら忘れてしまった陳腐な文言と、デフォルメされた猫の絵——から放たれる安っぽい香水の匂いは、母がなけなしの体力で振り絞った精一杯の愛だった。折り目のつかないようにそれを持つと、収納棚の奥に置いてあるお菓子の缶の中にしまう。それはきょうもまた一つ母からの大事な思い出を溜め込むと、苦しそうに蓋を膨らませた。
千円札をマジックテープ財布の中にしまうと、表面が破れてボロボロになった襖を開けた。その先では、厚化粧を施したままの母が眠っていた。ぐうぐうぐうと豪快ないびきが耳の中に残響を残していく。それはいつにも増して激しく、母の仕事が普段の何倍にも増してキツかったことがありありと浮かんでくるようだった。畳の上に投げ出されていた掛け布団を母の上に慎重に掛け直す。できるだけ長く寝かせてあげることで、この世の悲しさから少しでも離れていて欲しかった。その願いが通じていたか通じていないかは神のみぞ知るのだろうけど、母は綺麗な笑みを浮かべた。
「行ってきます」
少年はキイキイと音を立てる木造アパートの扉を開けて外に出た。首に下げた鍵で扉を閉めたあとに、ドアノブを引いて扉がしっかりと閉まっているかどうかを確認する。茶色く錆びた階段を降りると夏の日差しが上空から降り注いだ。この町に引っ越して来てから初めての夏は、都会の雑踏とは違って緑と青に溢れていた。見たこともないような虫や、底が見えるほど透き通った川。少年の知らない世界がここにあって、それはつまりこの町を好きになれそうな予感をはらんでいた。
引っ越したときから毎日通っていた公園があった。そこは考え事をするのに最適な場所で、とりわけご飯を何にするかを考えるのに使っていた。きょうも例に漏れず足を運び緑の天蓋となった歩道を歩きながら色々な選択肢を頭に浮かべていた。風が凪いで少年の頬を撫でる。気づくと公園の最奥の池周りまで歩いていた。スワンボートがいくつか池に浮いていて静かな時間が流れている。池の周りには木製のベンチが等間隔に備えられていたが、園内の利用者の割に座っている人はほとんどいなかった。結構な距離を歩いていたみたいで膝がガクガクしていた。一休みしようと空いていたベンチに腰掛けると、「ここ、座ってもいい?」同年代くらいの男の子が声をかけて来た。その後ろの女の子は男の子の腕を掴みながら、「別のとこにしようよ」と言っていた。
他人がいようがいまいが少年にとっては瑣末な問題だったので、
「いいよ、別に」
と、応えた。
「ありがとう。ここ、お気に入りの場所なんだ」
何の気なしに少年が二人と交わったこのときから、少年の歯車は回り始めた。
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