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ハジメテノカノジョ 第41話

リビングから美味しそうなご飯の香りがした。それはいつもと変わらない家庭の芳香で、それでいてあたりまえの匂いではないということを僕は痛いほど知っている。

 かつて、たどたどしくも懸命にご飯を作ろうとし、両の指に絆創膏をたくさん貼り付け、出来上がった焦げ臭い料理を前にして呆然と立ち尽くしていたアイナの後ろ姿は、いまやその過去を一ナノも感じさせないほどすっかり板についていた。

 僕はその姿に、嬉しくもあり、それと同じくらい悲しい思いを抱いていた。ひっきりなしに僕に頼って泣きついてきた頃のアイナはもういない。夜が怖くて眠くなるまでベッドで一緒にいてほしいと頼んできた頃のアイナももういない。

 アイナの日常に組み込まれていた僕という存在は、時間の試練に削られていって、存在そのものの痕跡が跡形もなく吹き飛ばされていったのではないかと疑いたくなるくらいにはなくなっていることだろう。

 それはアイナが成長したということだろうし、一人の独立した人間としてのもっとも確からしい一つのしるしだと思う。中学生なのにすごいねとかまだ若いのに頑張っているのねといった美辞麗句が掛け値なしに生み出されるのも訳がない。アイナはそんな褒め言葉に満更でもなさそうな様子だけど、その一方で、僕はそんなアイナの現状に不安を覚えるときがあった。

 アイナを取り巻くものは、その実、アイナの意志によるものではない。結果としてそうなっているのかもしれないけど、もとはといえば両親の喪失という意図しない出来事によって醸成された仮の姿だろうから。そういう環境においては、本当にやりたいことがあったとしても半ば強制的にアイナにいろいろなことを強いてしまっているのは間違いない。親友は僕のことを大人と言っていたけどアイナの方がよっぽど僕なんかより大人だ。僕なんかが霞むくらいにはアイナは一人の人間としてできすぎていた。親友にも似たその性質は恐ろしくもあった。

 ただ、はたして本当に完璧な人間なんているのだろうか。一見そう見えるアイナでさえも絶え間ない努力の下敷きがあるのだから。もしかしたら目には見えないけれど親友だって多大な苦労を重ねているのかもしれない。もちろんそれは佳奈にいたっても。

 それなら僕はどうだろうかという虚無的な問いと白井の話も相待って、いまは少し、妹の姿を見るのが辛かった。

「おかえり、ずいぶん早かったね」 「ただいま」

 野菜を切っているアイナの背後に立つと僕はアイナのことを抱きしめた。僕のこの姿をアイナに悟られたくなかったから。

「兄貴?」

 リズミカルに刻まれていた包丁の音がぴたりと止まる。

「包丁持ってるから危ないよ」 「ごめん。少しだけこのままで」

 アイナは包丁を置くと何も言わずに僕の腕にそっと手を添えてくれた。そのちょっとした気遣いが僕の胸にぽっかりと空いていた空虚さを埋めていく。グツグツと具材を煮込む音とカチコチと秒針を刻む壁時計の音が奏でられていたリビングは、いつもと変わらない家庭の音色で満たされていて、それでいて当たり前の響きでないのだということが伝わってきた。

 アイナのおかげで気持ちが落ち着いてきた。多分これはアイナなりの優しさのおかげであり、いい意味での家族ってものなんだと思う。理由もなくそばにいてもよくていつでも帰れる居場所があるということほど幸せなことはないんじゃないだろうか。

 そんな思いを噛み締めつつ、

「ありがとう、アイナ」

 と、僕は言うと、アイナから離れた。

「これは高くつくよ、兄貴」

 アイナはこちらを見ることもなくトントントンと野菜を切り始めた。

「出世払いでもいいですか?」 「はいはい、楽しみにしてるね」

 アイナの口角がほんのちょっとだけ上がった。

 僕も釣られて口元が緩むのも束の間、

「あ、そうだ。明日は家に帰るのが遅れるから先にご飯食べてて」

 と、アイナは言った。

 それは盛り付け用のお皿を取り出そうとしていた僕の動きを凍らせるのにはあまりある言葉だった。今までなら何の気なしにスルーしていたものだろう。だけど、いまこの場においては事情が違っていた。

「生徒会?」 「うん。引き継ぎで忙しくてさ」

 コンマ数秒で返される返答、それは著しく反応が速かった。元から準備されていたものと疑いたくなるほどに。

 一つのことを疑い出すと芋づる式に次から次へと疑惑の種が萌芽する。アイナを疑いたくはないのに僕の口は脊髄反射のように動き出していた。

「他に用事はあるの?」 「他に? あー、ちょっと寄りたいところがあるくらい」 「買い物なら僕も手伝うよ。買いたいものがあるし」 「ううん、一人で大丈夫だから。兄貴はテスト期間近いんでしょ? 無理して手伝わなくていいよ」

 至って普段通りの会話だったけど疑いのフィルターを介したアイナに対して息苦しさを感じ始めた。これは単なる確認だから真偽なんてどうでもいい。そう自分に言い聞かせながら僕は自らの意思で最後の質問をした。

「アイツの家に行く?」

 アイナは調理の手を止めると、

「先輩? ないない、明日寄る理由がないし。兄貴は何か用があるの?」

 と、言った。

「テスト用にアイツから参考書借りてたんだけどさ、返すのめんどくさくなったからアイナの帰り道だろうしついでに頼もうかなって」 「ひどっ」

 アイナはそう口にすると、

「流石にそれくらいは自分でやりなよ、兄貴」

 と、ジト目で僕を見つめてから調理に戻った。

「いやだー、めんどくさいー」 「もう、しっかりしなよ」

 偽りの嘆きを唱えながら僕はなぜアイナが調理の手をわざわざ止めたのか気になっていた。



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