人が強くなるところを映像にするのは、思っているよりずっと難しい。
物語であれば簡単だ。主人公が修行をする。何度も負ける。経験を積む。かつて勝てなかった相手を倒す。それだけで、主人公が強くなったことは伝わる。
ところがこれを実写に置き換えた途端にむつかしくなる。最初の喧嘩でも主人公は殴る。最後の喧嘩でも、同じように殴る。相手が吹っ飛ぶ距離を十メートルにすれば分かりやすくはなるが、それでは作品そのものの性質が変わってしまう。現実に近いアクションであるほど、強さの差は画面から消えていく。
このことは、ヤンキー映画を考えるとよく分かるだろう。主人公はまず街の不良と喧嘩し、次に学校の幹部と戦い、その次は学校の頭と、最後には隣町を仕切る怪物のような男と戦う。設定の上では、主人公は確実により強い相手と戦い続けている。
しかし戦闘の場面だけを切り出して並べてみるとどうだろうか。一戦目でも殴られ、最終戦でも殴られる。最初の敵を倒すときもパンチ、最後の敵を倒すときもパンチ。ゲームなら攻撃力12を84に書き換えれば済むが、実写でパンチの脇に84と表示するわけにはいかない。
そこでヤンキー映画は、強さを人間関係へと変換する。あいつは一年で三年を全員倒した。この学校であいつに勝てる奴はいない。隣町の頭ですら、あいつには手を出さない。そうした情報を積み上げたうえで、その男を主人公が倒す。すると主人公のパンチそのものは以前とほとんど変わらないのに、観客の中では強さが確かに更新される。誰を倒したかが、そのまま戦闘力になる。
もっと手際のよい方法もある。かつての敵を仲間にしてしまうやり方だ。主人公が序盤で死闘の末に倒した男がいる。その男が仲間になる。しばらくして新しい敵が現れ、あれほど強かったはずの男があっさり倒される。主人公はまだ一度も戦っていない。それでも、新しい敵がとんでもなく強いということだけは観客に伝わる。強さを直接撮影するのではなく、すでに観客が知っている人間を物差しにしているからだ。
これは少年漫画でも繰り返し使われてきた手法だが、実写ではとりわけ重要になる。人間の身体という上限がある以上、映像だけで戦闘能力を何倍にも見せるのには限界があるからだ。だから成長による強さの変化は、比較によってもっとも鮮明になる。
同じ敵をもう一度使うという方法もある。序盤、主人公は一人の敵を倒すのに五分かかる。殴られ、倒され、どうにか立ち上がって勝つ。物語が進んだあと、同程度の相手が再び現れる。今度は一発で終わる。ここでは筋力が何ポイント上がったかを説明する必要がない。観客は以前の戦いを覚えている。五分かかっていたものが五秒になった。その差が、そのまま成長として立ち上がる。
逆に言えば、比較対象を持たない強さは意外なほど伝わりにくい。知らない男が十人を倒したところで、その十人がどの程度強いのか分からなければ評価のしようがない。百人倒せば映像としては派手になるが、それは単に人数が増えただけでもある。強さと派手さは、同じものではない。
この問題を、とんでもなく露骨な方法で処理してみせた作品が『俺だけレベルアップな件』だ。水篠旬は最初、人類最弱兵器と呼ばれている。そこから敵を倒し、経験値を得て、レベルが上がる。筋力や敏捷性といった能力まで数字として表示される。映像作品でありながら、強さの表現を映像だけに任せない。Lv.1だった人間がLv.20になった。それだけで観客は強くなったことを理解できる。
これは単なるゲーム的な演出ではない。成長する主人公を描くときに映像が必然的に抱える問題と、恐ろしく相性のいい仕組みなのだ。しかも『俺だけレベルアップな件』は数字だけで済ませない。以前なら死にかけていたはずの敵を簡単に倒す。複数の敵をまとめて処理する。周囲のハンターが苦戦している戦場に旬が入っていくと、戦況そのものが塗り替わる。数字による強さと、比較による強さが同時に積み上がっていく。
やがて面白い変化が起こる。序盤では旬が勝てるかどうかが気になる。しかし強くなり続けるうちに、勝敗への関心そのものが薄れていく。代わりに気になり始めるのは、今回はどれくらいやるのか、という一点だ。ここで、成長物語だったはずの作品は、最強主人公の物語へと姿を変える。
この種の作品では、主人公の強さをそのつど更新する必要すらなくなっていく。求められるのは主人公を苦戦させることではなく、主人公が到着するまで状況を悪化させ続けることだ。強敵が現れる。ほかの人間が戦う。勝てない。もっと強い人間が出ても、やはり勝てない。そこへ主人公が来る。この順番を踏むだけで、主人公が一発殴るより前から強さは成立してしまう。
考えてみれば、映像における強さは身体そのものに宿っているわけではない。パンチの速さでもない。筋肉の大きさでもない。敵が吹き飛んだ距離だけでもない。昨日五分かかった相手を今日は五秒で倒す。街で最強だった男が恐れている。誰も勝てなかった敵を一人だけ倒せる。絶望していた人々が、その人物の登場を見ただけで戦うのをやめる。そうした落差によって、観客は強さを測っている。
ゲームはそれを数字にする。ヤンキー映画は序列にする。少年漫画は過去の敵を物差しにする。最強主人公ものは、周囲の敗北によって強さを証明する。
強さそのものは、カメラには映らない。映せるのは、強い人間が現れる前と、現れたあとの落差だけだ。その落差が大きいほど、観客の中でその人物は強くなる。
コメントはまだありません。