最近、「超かぐや姫!」の劇場公開が話題になっている。とはいえ上映は限定公開で、足を運べる劇場も回数もわずかだ。だからだろうか。行きたいとは言いながら、仕事がなければ、学校がなければ、用事がなければ、といくつもの前提を添える声をよく耳にする。
この態度に、私は少し引っかかりを覚える。というのも、その前置きは熱意の表明のように見えて、実は自分の立場を守るための保険のようにも聞こえるからだ。本当に強く見たいのであれば、時間を作ろうとするのではないか。遠くても行く人は行くし、忙しくても都合をつける人はつける。そう考えると、数々の「じゃなければ」は、興味が最優先ではないことの裏返しのようにも思えてしまう。
もちろん、現実は単純ではない。仕事や学校は生活の土台であり、それを軽く扱うことはできない。家庭の事情や体力の問題もあるだろう。映画一本のために無理をすることが、いつも正しいわけではない。だから、見に行かないという選択そのものを責める気持ちはない。
ただ、気になるのは言い方である。見に行けない、ではなく、見に行かない。あるいは、今回はあきらめる(わざわざ言う必要もないが……)、と率直に言えばよいところを、あれこれと条件を並べる。その言葉の重ね方に、どこか自分の中の迷いがにじむ。好きだと言いたい気持ちと、そこまでではない現実。その間をうめるための言い訳が、「じゃなければ」という形をとるのではないか。
私は、興味の強さは、時間や労力の使い方にあらわれると思っている。限られた日々の中で、何を優先するかは、その人の価値の置きどころを示す。だからこそ、限定公開という状況は、その作品への本気度を浮き彫りにする装置にもなる。
とはいえ、情熱の形は一つではない。劇場には行かなくても、感想を読み、音楽を聴き、友人と語る人もいるだろう。遠くから応援する在り方もある。結局のところ、他人の熱量を測ることはむずかしい。
それでもなお、私はときどき考える。もし本当に見たいなら、どうにかして行くのではないか、と。そして、その問いは他人に向けているようでいて、実は自分自身に返ってくる。自分が好きだと言っているものに、どれだけの時間を差し出しているのか。その答えは、言葉よりも行動にあらわれるのだと思う。
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