yukisskk

無意識の接続を断つ

スマホよりガラケー

起床直後、私の手は思考より先に動く。枕元の端末へ自然に伸び、画面を点灯させ、指は情報を探し始める。ここにあるのは利便ではなく、習慣化された反射である。恐怖は端末そのものではない。私自身の行動が、私の意思から離れて進行している点にある。

この反射は、短い空白のたびに再現される。通勤電車、待ち時間、移動の合間。目的が明確でないのに画面を開き、通知や話題を拾い集める。しかし、下車するときに残るのは内容ではなく、眼精疲労と、空白が削られた感覚である。時間は消費されたのに、経験としての密度は増えない。この不均衡が、静かな不安を育てる。

私が最も恐れるのは、注意の主導権が恒常的に外部へ移譲されることだ。端末は連絡や検索の道具であると同時に、連続刺激の入口でもある。刺激は手軽で、到達も速い。その速さは、思考の熟成や内省の持続を断ち切る。結果として、日常は細片化し、集中の長さが縮む。いったん縮んだ集中は、意志だけでは回復しにくい。ここに、自己統制の摩耗がある。

夜間も同様である。端末を置いたつもりでも、指先は画面の感触を覚え、再接続を求める。私は暗がりで自問する。

「いま、本当に見たいのか」

答えが定まらないまま画面が光るとき、私はガラケーを思い出す。折りたたみ機構、物理キーの抵抗、動作の遅さ。これらは欠点ではなく、制限としての価値を持つ。機能が少ないため、端末は娯楽の中心になりにくい。手間が増えるため、行為に小さな判断が挟まる。その一拍が、反射を行動へ変えないための防波堤になる。

もちろん、スマホには代替しにくい用途がある。地図、認証、業務連絡。現実の要請を無視することはできない。したがって私が求めるのは、全面否定ではなく、接触頻度の設計である。端末を道具へ戻し、生活の主役を私に戻す。そのために、ガラケー的な制限を採用したい。制限は不便を増やすが、同時に余白を回復させる。余白は、窓の外を見る時間であり、身体感覚を取り戻す時間であり、考えをまとめ直す時間である。

私の手は、本来、暮らしを組み立てるためにある。食器を洗い、衣服を整え、だれかに触れて温度を伝える手である。その手が無意識に画面へ向かうなら、私は道具の側を変える必要がある。ガラケーを開く動作は、私に合図を与える。

「いまは、ここにいる」

そう言える状態を増やすこと。光の連鎖ではなく、静けさの連続を取り戻すこと。それが、私がガラケーを選びたい理由である。



前の投稿
自分の声がAIの餌になる契約書にサインできるか


コメント