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風邪をひき始めた模様

に公開
目次

1. メモ

2. 時事オピ

【2】20代に見える“童顔の中年女性”が急増しているワケ。「パーツを顔のやや下に集める」メイク術の進化も要因に

https://news.yahoo.co.jp/articles/7d6bb015b1b7a843000f09dee7ac3bc44be95f1b

「本当にこの年齢なのか」と話題になる“年齢不詳のミドル女性”が急増している。この背景には、顔の印象を決める心理メカニズムからメイク技術の進化まで、複数の要因が絡んでいた。

20代に見えて嬉しいものなのかな? 年齢通りに見られないのは、それはそれで悲しい気がしますが……

◇◆◇◆◇◆

【1】「残クレアルファード」はこうして広まった マイルドヤンキーとトヨタの“最適解”

https://news.yahoo.co.jp/articles/e61a0c105d15dbedfc91bcf5c11f8761a0cebdd2

トヨタのLサイズミニバン、アルファード/ヴェルファイアの人気に陰りが出ていると言われ始めた。

アルファードめちゃくちゃ乗り心地がいいんだよねぇ。残クレしてまで書いたい気持ちもわからなくない。

3. 【5分で解説】それは正義か、娯楽としての私刑か。万引き動画の拡散が招く「デジタルタトゥー」の残酷な代償

5分で解説

インドネシアへの修学旅行中に発生した万引き事件を端緒として、いま再びSNSにおける「さらし」行為の是非をめぐる議論が熱を帯びています。この問題が私たちに突きつけているのは、単なる少年の非行やネットマナーといった表層的なテーマではありません。誰もがスマートフォンという高性能な撮影機材と発信基地を掌中に収めた現代社会において、市民が抱く正義感と法的な秩序、そして一個人が負うべき代償のバランスが、かつてないほど危うい均衡の上に成り立っているという現実です。

2ちゃんねる創設者のひろゆき氏は、こうした「さらし」行為を肯定的に捉え、法制度の不備を補完する機能があると指摘しています。確かに、彼の主張には一理ある側面も否定できません。私たちはこれまで、企業の隠蔽体質や行政の事なかれ主義、あるいは警察が介入しにくい民事トラブルの現場において、SNSによる告発が膠着状態を打破する様子を何度も目撃してきました。法の手続きがあまりに時間を要する場合や、制度の隙間に落ちてしまう被害者にとって、SNSの拡散力は唯一残された「武器」であり、社会的な抑止力として機能している現実は無視できないものです。泣き寝入りを強いられてきた人々が声を上げられるようになったこと自体は、テクノロジーがもたらした恩恵と言えるかもしれません。

しかし、その一方で笑下村塾代表のたかまつなな氏が投げかける「見えている事実が全てではない」という疑義は、私たちが熱狂の中で見落としがちな視点を冷静に提示しています。SNSのタイムラインを流れる数十秒の動画や一枚の写真は、あくまで切り取られた断片に過ぎません。その万引き行為の背後に、どのような文脈があったのか。貧困による困窮があったのか、精神的な圧力が働いていたのか、あるいは映像自体が誤解を招くアングルで撮られた冤罪の可能性はないのか。そうした「余白」への想像力を欠いたまま、断片的な情報だけで個人を特定し、拡散ボタンを押す行為は、あまりにも暴力的な側面を孕んでいます。

ここで私たちが直面しているのは、「失敗が許されない社会」という構造的な息苦しさです。かつてのアナログな社会であれば、若気の至りや過ちは、地域社会という限定的な範囲での噂話に留まり、時の経過とともに風化していく余地がありました。それはある種、人がやり直すためのセーフティーネットとして機能していたとも言えます。しかし、デジタル化された現代において、一度ネットの海に放流された過ちは「デジタルタトゥー」として半永久的に刻まれます。就職活動の際、結婚の際、あるいは何十年後に責任ある立場に就こうとした際、かつての「さらし」が亡霊のように蘇り、その人の人生を足元からすくい上げる。その代償は、犯した過ちの重さに比べてあまりに不均衡であり、更生の機会すら奪う「社会的死刑」にも等しいものです。

さらに恐ろしいのは、この裁きのプロセスに法的な手続きが一切介在しないことです。一人のインフルエンサーが「こいつは悪だ」と指差せば、数万人のフォロワーが裁判官となり、石を投げ始める。そこには弁明の機会も、証拠の精査も、情状酌量の余地もありません。これは、近代社会が長い歴史をかけて築き上げてきた「法治主義」の否定であり、感情と勢いだけで刑が執行される「人治主義」への退行に他なりません。法制度が完璧でないことは事実ですが、だからといって私人が私人を裁くリンチが常態化すれば、社会は「明日は我が身」と怯え合う相互監視のディストピアへと変貌してしまいます。

もちろん、法制度の側にも変革は必要です。現行の司法が被害者の救済に追いついていないからこそ、人々は私刑に喝采を送るのです。証拠能力の認定プロセスを見直し、デジタル時代のスピード感に合わせた司法手続きの整備を進めることは急務でしょう。しかし、法が整うのを待つ間も、私たちは指先一つで誰かの人生を終わらせかねない「凶器」を握り続けています。正義感に基づく告発と、鬱屈した感情を晴らすための私刑の境界線は、実は極めて曖昧です。その境界を見極めるのは、もはや法律の条文ではなく、私たち一人ひとりの倫理観と想像力に委ねられています。誰もが監視カメラとなり得る時代だからこそ、画面の向こう側にいる生身の人間の痛みを想像し、一度立ち止まって考える。そんな「ためらい」の知性こそが、今の私たちに最も求められているのかもしれません。



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