年代別の海外SFアンソロジーには空白の期間があった。山岸真編『90年代SF傑作選』の刊行から18年、ゼロ年代を編んだ一冊はずっと出ていなかった。その空白を橋本輝幸が引き継いで編んだのが本書だ。2000年から2009年に発表された短篇9作を収め、収録作の大半は英語圏の作家によるものだが、劉慈欣の一作だけが中国語からの翻訳になっている。
冒頭を飾るエレン・クレイジャズ「ミセス・ゼノンのパラドックス」(井上知訳)はわずか数ページの掌篇だ。カフェでケーキを半分に切り、その半分をまた半分に切り、という行為をひたすら繰り返す二人の女性を描きながら、ゼノンのパラドックスというタイトルどおりの仕掛けで着地する。短さと軽さでアンソロジー全体の助走をつける役割を果たしている。
続くハンヌ・ライアニエミ「懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)」(酒井昭伸訳)は、捕らえられた主人を救い出すために犬と猫が奔走する冒険譚という体裁を取りながら、動物の体に埋め込まれた知性のありようを通じて、ポストヒューマンな存在が抱える忠誠心や記憶の問題を扱っている。ダリル・グレゴリイ「第二人称現在形」(嶋田洋一訳)は、人格そのものを消し去る薬物を過剰摂取した少女の体に、まったく別の人格が上書きされてしまうという設定から始まる。目覚めた少女は自分がかつての娘の続きなのか、それとも別人として娘の体に居座っているだけなのか、その判断を両親も本人も下せないまま物語が進んでいく。
劉慈欣「地火」(大森望・齊藤正高訳)は、地下で石炭を直接ガス化させる技術を軸にした炭鉱業界の物語だ。安全な採掘方法を実現しようとする技術者の執念が、制御を離れた地下の火として跳ね返ってくる展開は、他の収録作と比べても筆致が暗く、地に足のついた技術的リアリズムで押し切ってくる。コリイ・ドクトロウ「シスアドが世界を支配するとき」(矢口悟訳)は一転してユーモラスだ。疫病? で世界の大半が失われたあと、インターネットのインフラを守り続けるシステム管理者たちの奮闘を描く。文明が壊れてもサーバーは動き、ネットワークを維持しようとする人間がいる。その妙に現実的な職業意識が、終末ものとしての異様さを際立たせている。
チャールズ・ストロス「コールダー・ウォー」(金子浩訳)は、東西冷戦の裏側にクトゥルー神話的な存在を組み込んだ作品だ。歴史上の出来事がひとつずつ怪物的な読み替えを受け、冷戦そのものが宇宙的恐怖へと変わっていく。政治や軍事の論理が、人間には制御できないものを利用しようとする危うさと結びついている。N・K・ジェミシン「可能性はゼロじゃない」(市田泉訳)は、ニューヨークの住人たちが突如として確率そのものを操るようになってしまった世界を舞台に、統計や偶然という目に見えない仕組みが崩れたときの都市の反応を描く。
グレッグ・イーガン「暗黒整数」(山岸真訳)は、前作「ルミナス」の続篇にあたる一作で、数論の奥に潜む別の数体系と、それを兵器として利用しようとする勢力とのせめぎ合いを描く。数式をほとんど出さずに数学的な対立構造を戦闘として体感させる筆力は、本アンソロジーの中でも際立っている。締めくくりのアレステア・レナルズ「ジーマ・ブルー」(中原尚哉訳)は、宇宙的な規模で活動する芸術家が、自らの起源へと遡っていく物語だ。膨大な経験と能力を手放し、かつての単純なプール清掃機械へと戻っていく選択が強く残る。複雑になり続けることを進歩と考えるなら、ジーマの最後の行動はその方向を完全に逆転させる。記憶を捨てて単純な存在に戻っていく芸術家の選択は、Netflixのオムニバスアニメ「ラブ、デス&ロボット」でも映像化された。
9作を通して読むと、このアンソロジーでは意識や記憶、数論、確率といった目に見えないものを物語の骨格に据えた作品が目立つ。派手な宇宙戦争や未来都市ではなく、人格が途切れたらその人は誰になるのか、数学の法則が別の体系と衝突したら何が起こるのか、確率がおかしくなった都市で人はどう暮らすのか。扱う題材も、そこから物語を組み立てる方法も、9作それぞれで大きく異なっている。
だからこそ、2000年代という括りからひとつの時代精神を探すより、SFがどれだけ異質な材料を小説に変えられるのかを見るほうが面白かった。数学から記憶まで、普通なら同じ棚に並びそうもない題材が、SFという形式のなかでは一冊に収まってしまう。その振れ幅そのものが、このアンソロジーを読む楽しさだった。
橋本輝幸による年代別傑作選はこのあと『2010年代海外SF傑作選』へと続いていくが、その前段としてゼロ年代の質感を一冊で掴んでおく価値は十分にある。
コメントはまだありません。