ねこねこお悩み相談室の日常
2025-06-13
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 現実主義というやつは、どうも悲観的になるらしい。この世に生まれて十五年の歳月を経て至った一つの仮説だ。
 ラーメン屋の店主みたいに腕を組みながら見得を切っているヒーロー戦隊ものはコンピュータグラフィックスの技術をふんだんに用いた科学技術の結晶であるし、夏の幽霊特番に出てくるおどろおどろしい死霊なんていうのは生体電磁場との干渉の結果生じたものであるし、未知のハンドパワーを宿した人がテレビの前でスプーンを曲げる芸当はてこの原理を用いただけだということは、それらを初めて見たであろう幼稚園くらいの時には言語的に証明できないにせよ、実在なんて無理だろうということを本能的に察していた。
 それを具体的に理解し始めた時は確か、赤服のサンタクロースが煙突からやってきたわけでなく、トナカイを引き連れて窓からやってくるわけでもなく、近所のおもちゃ屋の捺印がしてあった箱を手に玄関から堂々と父がやってきたときからだったと思う。
 実在しないものをあれこれ考えたって全くの無駄だろ?
 そういう話題で盛り上がる奴らと同じ空気を吸っているという行為だけでも嫌気が差すくらい思考の柔軟性を認めていなかった俺は、毎日毎日吐き気を催しながら学校に通っていた。
 つまるところ、ぼっち生活っていうやつを送っていた俺だったのだが、別段一人が好きだった、とか、そういうわけではない。むしろ、人と話すのは好きな方だ。普通に話しかければ普通に返答したし、一緒に帰ろうと言われれば、一緒に帰ったりはした。だが、心の奥底ではこんな低俗な奴らとは違う、という愉悦に浸り、自分の人格をそいつらに合わせて適応させることが出来てはいなかった。そんなわけで、結局俺はぼっちになっていったのだが。
 そういう悲劇的な生き方を自ら選択してきた俺は、わらをも掴む思いで両親に救いを求めようとしたのだが、それは叶わなかった。その行為自体が失敗した、というわけではなく、そもそもそれが泡沫の夢で終わることを自覚したからだ。具体的に言うならば、両親を含む大人というやつは、根本的に見えない徒党を組んでいる気がして話し相手としては心もとなかった。というのも、小学校の三年生だか四年生の頃、テストの点数でこっぴどくひどい点数を取ってしまったときに、たまたま俺の机の上に置きっぱなしだったそれを見た普段無口な父さんに「母さんにだけは黙っておいてくれっ」て釘を差したにも関わらず、その日のうちに鬼の形相を呈した母さんからこっぴどく叱られたことがあったからだ。
 母さんの話に及んだのでその生態について少々補足するが、幸運なことに、いや包括的に見て今までの俺が幸運かどうか判断しかねるけど、母さんは八つ当たりなるものを俺に向けなかった。ほんのりと黄金色の腕は、俺を抱きしめたり、ふんわりパンケーキを作ってくれたり、テストで高得点をとった時に撫でたり、そういうために使ってくれた。だからといってそれは必ずしも権威を示すための無差別な暴力だとか、聞き分けのない子どもを叱るための致し方のない暴力に使われたわけでも無かったが、その比重は俺という「コップ」の中に絶え間なく入ってくる「水」の中に「墨汁」を一滴したたらせた程度のものであった。
 話を戻そう。
 何はともあれ、日常生活の大部分が厭世まみれの物質に埋もれていた俺だったが、ただ一つだけ心を許せるものがあった。
 もちろんそれは、同年代の学生でもなく、大人たちでもない。
 それは、白銀の艷やかな毛並みをもつ愛猫の春香だ。
 春香は、俺が家に帰ってくればいつでも何も言わずに話し相手になってくれた。煎じ詰めれば、その内容が漏れてどこかに伝達し、巡り巡って俺に返ってくることもない。そういう信頼性が理性のある動物とそれが無い動物の間で無条件に確立されていたからこそ、俺は小難しいことを考えることをせず一緒にいることが出来た。つまりは、春香は心のよりどころになってくれていた。
 ゆえに、今まで体が不調を訴えることもなく、なんとか生きてこれたんだと思う。
 だがそんな春香も、高校入学前日のきょう、十余年の歳月をもって息を引き取った。
「長生きしたじゃない」
 母さんが言った。
「お前がしっかりと育ててくれたからここまで生きられたんだ。偉いぞー」
 父さんが言った。
「だろ」
 俺は言った。
 春香の遺体をぎゅっと抱きしめると、首にかかっていた猫鈴がチリンと鳴り、あれだけあったかくってふわふわしていたその身体は冷えて固まっていた。
 瞼を閉じて、春香との思い出を振り返る。
 俺の部屋で一緒にご飯を食べたり、浴槽の縁によりかかりながら一緒にお風呂に入ったり、ときたま家からいなくなった時があったけど、俺が呼べばどこからともなくすぐに駆けつけてきてくれたりと、思い返せば返すほど、かけがえのないものが俺の手からぽろりとこぼれ落ちた喪失感に押しつぶされそうになる。
 そして俺は、いつの間にか瞼の裏に熱い湿り気を感じていた。
 より強く、より烈しく春香を抱きしめる。
 なぁ神様、俺はな、お前の存在なんかこれっぽちも信じちゃいないが、そのとんまな耳をかっぽじってよく聞いとけ、一回しか言わないからな。

 ・・・・・・春香を、生き返らせてくれ・・・・・・

 瞼を開けると、動かぬままの春香の亡骸がそこにあった。
 漫画じゃあるまいし、そんな都合の良い話なんてあるわけないか、そういう諦念を胸に抱きつつ、深く掘った庭の土の上にゆっくりと春香の遺体を下ろすと、土を埋め、手を合わせた。
「またどこかで逢えたら良いな」
 その夜俺は柄にもなく、ロマン主義というやつの掲げる蜃気楼に浮かぶ希望を胸に、涙を流しながら布団に潜った。


 うすらぼんやりとしている目を開けて外を見ると、薄いレースのカーテン越しにうっすらと日がさしていた。仄暗い。まだ母さんが起こしに来る時間じゃないな、もう一度布団の中に入って目を瞑り、脳髄に寝ろと命令する。今すぐまどろみの中に落ちれば、春香といい感じに大草原を走り回っていた夢の続きを見れるかもしれない。
「ごしゅ・・・・・・じん」
 鈴を転がすような柔らかい声が布団の上から聞こえる。母さんでもないし、父さんでもない。ましてや親戚のどの人たちの声でもない。
 誰だ? 枕元に置いてある電気スタンドを点け、眠気眼をこすって上体を上げると、目の前に銀髪の猫娘が女の子座りで鎮座していた。
 雪が振り重なっているのではないかと錯覚するほどの白さを放つ肌、高い鼻筋のたもとに根をおろす切れ長の双眸、鋭い猫耳、細い輪郭、それと、つるりとした体躯はほんの僅かに胸の辺りが膨らんでいた。
 全裸だった。もう一度目をこすってみるが、やっぱり全裸だった。
 頬をつねって痛みを確かめることでいまの状況が現実かどうか判別するやつをやってみるが、めちゃくちゃ痛い。
「やっと起きたですよ!」
 猫娘が頬をぷっくり膨らましている。
 すっごく可愛い。
 あまりの可愛さに条件反射で抱きしめそうになったが、たとえ亜人であろうとも全裸の女の子に対してそこまでする勇気は出なかったので、その頭を優しく撫でるに止めた。
「うー、くすぐったいですよー」
 猫娘が体をくねくねと揺らしていたが、それはおかしい。その手は空を切り、猫娘の頭をすり抜けているからだ。目では実態を捉えられているのに、触っている実感が全くといっていいほど得られない。ただ空気をかき回している感覚がフィードバックされるだけだ。
 もしかして・・・・・・一つの予感がふつふつと湧き上がってくる。それは、ふわふわとして、暖かくて、優しくて、希望に満ち溢れた予感。
 そして俺は、どうか正解であってほしいと願いを込めて尋ねる。
「君は、春香?」
「そうです、よ?」
 猫娘が春香だということは自明の理であるかのように、大仰に首を傾げていた。
 俺は手を合わせて虚空を見上げる。
 神様、仏様、猫神様、今まで貴方様たちはこの世に存在しないと思い、無下に扱ってすみませんでした。
 罪滅ぼしになるかどうかは分かりませんが、毎日神社にお参りに・・・・・・は現実的に長続きしなさそうなので、これからは毎年初詣にいくので許してください。
 そんでもって、高校生活では今までの厭味ったらしい俺を悔い改め、存在しないものをあれこれ考えたって別に良いじゃない、誰彼傷つけているわけではないんだもの。なんて心の余裕もったNEW俺として学校生活を過ごすことを誓います。
 最後に、俺の大事な春香と再び逢わせてくれるだけじゃなくて、喋ることも出来るようにしてくれて本当にありがとうございます。
 そんな懺悔と決意と感謝を胸に抱きつつ、人間って都合のいい生き物だな、なんて我ながら呆れ返ったりしつつ、春香との前途多難な高校生活が始まったわけである。

「要は、その、猫神様っていうのが言うのには、俺のもとに猫娘として生まれ変わらせるかわりに、地上で生きる人間の悩みを解決したときに出てくるものを集めて猫神様に献上するのが春香に託された使命で、もし月のノルマが達成できなかったら存在そのものが消えて無くなるってこと?」
 ノルマ達成できなかったら存在を消されるとかブラックの極みじゃねぇかと、春香の言葉を噛み砕いて言い直しながら思った。
「はいです。失敗すればそれはもう、私という存在がご主人の記憶からも跡形もなくこっぱみじんに消えて、どっかいってしまうとおっしゃってました」
「それは困る」
「自分が消えてなくなっちゃうのは、もちろん、怖いですけど、それよりもご主人と離れ離れになってしまう方がもっと怖いですよ!」
 随分とうれしいことを言ってくれるもんだと、感極まって抱きしめたくなったが、通学中の学生たちの目が、俺=(独り言をブツブツと喋っている稀有なやつ)、と思っているんじゃないかと否応なしに認識させられるほど怪訝な表情を浮かべていたから止めた。中学時代からそんなような待遇ーーもちろん、自分から引き起こしたものーーは受けていたし、改めて心的ストレスを感じるほど気には掛けていないにせよ、頭のおかしなやつとして通報されるのは勘弁だ。
「っていってもなぁ、悩みを解決するっていうには具体的にどうしたらいいのやら。例えば、町のボランティア活動を通じてっていうのも良さそうだし、学校生活やら部活やらを通じてもいいし・・・・・・にしても、春香は直接動けないだろうから俺が動くしか無いのかぁ」
「頼みます、ご主人!」
「きちぃー」
「頑張れ、頑張れ、ご主人! 負けるな、負けるな、ご主人!」
 今までほぼ一人で生きてきた俺には結構難易度高いぜ? 誰かが引っ張ってくれるならまだしも、という俺の気なんてつゆ知らず、いつの間にか高校指定のブレザー姿から応援団が着るような一張羅に鉢巻という出で立ちに変わり、ずいぶん呑気にボンボン片手に手足をふりふりしていた。そこはタンクトップにミニスカートだろという邪な思いが頭をかすめたが、無粋なので止めておこう。そんなことを考えられるほど心の余裕が出来たっていうことで結論。
 春香は、風船を針でつついてパンッて破裂させたみたいな様子でブレザー姿に戻ると、
「ご主人の無理のなさらない程度で大丈夫ですよ! 猫神様って結構おおげさにものをおっしゃって、この世の道理からはずれないように釘を刺す癖があるので、別段何もしてなくてもいたって平凡に過ごしていれば問題ないと思います」
 と、言った。
「結構ゆるいんだな」
「ゆるゆるも、ゆるゆる。脂っこいものをたくさん摂りすぎちゃった次の日の、ご主人のお腹くらいゆるゆるですよ! この前お会いしたときは、最近物忘れが多くなって困ったなぁともおっしゃってました」
「それはゆるい・・・・・っていうか、神様の割に随分人間みたいだな」
「見た目は、綺麗な黒髪を後ろに束ねたうら若いお姉さんですよ。御年うん百歳だそうですが・・・・・・何なら今度、一緒にお会いします?」
「そんなスナック菓子を買いに行く感覚で会ってもらえるもんなの?」
「営業時間中なら、こんにちわー、ってドアを開ければ、よく来たねー、って迎え入れてくれます」
「ええっ、猫神様のとこって、マスターきょうはやってるぅ? 的なノリで行けるの! すげぇ!」
 急に大声を張り上げたせいで周りの学生からイタイケな視線を頂戴した。こほん、咳を挟む。
「はいです! あそこにいけば」
 そこは、休日によく通っている木造二階建てのネコカフェだった。
 黒髪を後ろに束ねた人間に該当する人物は、俺の知る限りではあるがこの店において一人しかいない。
「猫神様って、ここのマスターだったり?」
「そうですよ!」
「普通の人間だと思ってた・・・・・・」
 キューティクルが何十枚も層となっている黒髪を肩まで伸ばし、無駄な贅肉の一切を排除し、そのしなやかなくびれから伸びる手足が織りなす立ち振る舞いーー全て丸みを帯びているーーマスターの姿が目に浮かぶ。確か、日本舞踊を嗜んでいるとかいないとか。
 挨拶程度の話を交わす分には人畜無害な人ではあったが、そんな人がヤクザの上納金まがいのことをやっているなんて知りたくなかった。
 気分が滅入って来る前に話題を変えよう。
「もしかして、猫のときたまーにいなくなってたのって?」
「ここに来て猫神様とおしゃべりしてました!」
「さいですか」
 いつの間に猫神様の性格を推し量れるほど会話してたのとか、どうやって会話を成立させるんだろうとか、神様って案外身近にいるもんなんだなぁとか、話の種は尽きないのだが、せっかくこの世に春香を生まれ変わらせてくれた猫神様のためにも、できる限りのことはやりますかね。ちょっとずつになるかもだけれど。
 そんなこんなで、だだっぴろい体育館で入学式がおこなわれている間、バーコードヘッドの校長から奏でられる、眠気を誘うような、説法を説いているような、そんな単調な調の入学の挨拶を頭の片隅においやり、クラスに戻ったら行われるであろう自己紹介の口実を念仏のように何回も唱え終え、ふぅと一息ついてから視線を横に向けたのだが、見間違え、じゃないよな。
 俺の隣に座っている黒髪超絶美少女兼清楚系女子、いわば、ザ・委員長タイプの女子の肩上を、褐色の猫娘がふわふわと浮いていた。
「あれ、あんたは猫神様のとこにいた」
「クロちゃんじゃないですか! こんなところで会えるなんて、思ってもいなかったですよ!」
「私もよ、これも何かの縁かしらね。よろしくね」
「よろしくですよ!」
 春香とクロとかいう褐色猫娘は空中で手を握り合って上下にぶんぶん振っていた。
 猫娘って他にもいたんかいっ、とか、猫娘同士なら触れ合えるんかいっ、とか、もっと早く他の猫娘の存在を教えてくれなきゃ急に出くわしたとき心臓に悪いやいっ、ていう心の中のツッコミを他所に、隣の超絶美少女は春香を見て一瞬固まると、次いで俺の方を向いて太陽が光り輝いているような眩しい笑顔を浮かべた。
 猫娘万歳。と考えている間に入学式はつつがなく終了し、俺は一年四組の教室へと、胸いっぱい希望いっぱいに心躍らせながらクラスメイトたちとぞろぞろ入った。
 担任の杏子とかいう妙齢の女教師は、女子校出身というのが手にとってわかるようなイケイケのトーンで、自分が国語教師であるだとか、硬式テニスの顧問だとか、大学時代は硬式テニスの腕前なら県で一、二を争う猛者だったとか、俺にとって大して興味をそそられないことをひとしきり話し終えた後、
「では、自己紹介してもらおうか」
 と、とって付けたように加えた。
 名前の順で並んでいた俺から見て右前の生徒から、順繰りに、名前と出身中学だけをぼそっというやつもいれば、趣味は世界征服だとか本気で言ってるのか区別つかない感じのお調子もの? もいれば、好きなアニメの話をつらつらと話しているやつもいた。まぁ、どの男女も見た感じ、ほとんど同じ中学から上がってきた奴らだったから成立してるみたいだったが。
 そして、件の美少女が立ち上がり、背筋をぴんっと伸ばすと、
「榎本美月です。趣味は手芸で、可愛いものを作るのが好きです。引っ越してきたばかりでこの町についてもまだよく分かりませんが、一年間、どうぞよろしくお願いします」
 小鳥がさえずるような朗らかで透き通った声アンドひまわりの笑顔で言った。教室が先程までとは打って変わって、割れんばかりの拍手に包まれる。もちろん俺もそれに小さいながらも加担した。その一方で、何故かは知らないが、空中にぷかぷか浮いていたクロは嘆息していた。
 その後の奴らは俺含めてでがらしみたいな感じだったが、やるべきことを終えた開放感というのはいいものだ。
 悩み事をどうやって聞き出そうか、とか、榎本さんに猫娘についてどうやって話しかけようかとか考えながら、その機会をちらちらと伺いつつ、兎にも角にも、高校生活が始まりを告げたわけである。

 榎本さんに話しかける機会を伺うついでに副次的に気づいたことがあるのだが、この榎本さんという人は対人関係のスペシャリストというか、もっと具体的に言えば、ありがたがられる世話とおせっかい焼きの境界をいい具合に渡り合うのが得意なようだ。
 休みの度に榎本さんの元へと女子や男子が集まってきては、にこにこと嫌味のない顔で対応するし、まだクラスに馴染めていない女子や男子に寄っては、十分条件を満たす程度の簡素さでもって話しかけていた。
 本人にとっては心から湧き出る好意から出た行動なのだろう。そうでなければ、あんなにスマートに日常を過ごせるはずが無い。そういうふうに初めて出会ってから一通り学校の用事が終わるまで思っていたが、それはとんでもなく間違いだったということを下校時に思い知らされることになる。
 学校説明も一通り終わり、教室内でグループ同士が仲良く手を取り合って帰り自宅を済ましている時だった。俺は一人で帰り支度をするふりをしつつ、机の中にいれた高校生活に当たっての心得とかいう資料を出したり引いたりしていた(注・おそらく同類であろう榎本さんに声を掛けるほどの勇気が出なかった。結果的に、いつになったら話しかけてくれるのかな、とか待ちの姿勢になっているのはここだけの話)、隣の席で女子と談笑していた榎本さんが「明日は一緒に帰ろー」っと言ってすっと立ち上がった。
「ねぇ、薫くん、一緒に帰ろっか」
「えっ(ついに来たか)」
 グループの女子たちが途端に色めきだつ。
「もしかして、彼氏だったりぃ」
「違う違う、薫くんとは従姉妹なの。きょうは家族同士でご飯を食べに行くから」
 榎本さんはそう補足すると、俺の二の腕を万力でねじ切るくらいの威力でもってガシッとはさみ「だよねー」俺にだけ見えるように凄みを効かせてきた。
 いや、そんなこと言われてもきょう初めて榎本さんと会ったばっかりだし、というより、従姉妹って何? どこ情報? もしかしたら、猫神様は俺の哀れな境遇を慮って、手を繋いで二人っきりの甘い下校時間を過ごさせてあげようだとか、実は二人の関係は許嫁ということにして一緒に住まわせてあげてもいいなぁだとか、そういう青春群像劇的な小粋な演出を仕組んでくれたの? 猫神様ばんざーいって、コンマ何秒かの間を走馬灯のように駆け巡っていたのだが、はっと我に返って辺りを見渡すと、クラス男子たちの一部の手中に、どっから出したかは到底理解不能である大小様々な、それでいて精神衛生上無意識のうちにモザイクの掛かったなにか持って、ぱちぱちと掌の上で叩いてやがった。
「ほー、入学そうそう、女子といちゃつきやがって」
「いまなら俺、なんでもやっちゃう自信あるわー」
「あらやだ、すっごくイケメン、いじめたくなっちゃうわ〜」
「○す」
 怨嗟混じりの視線と発言が五寸釘で全身くまなく刺されたみたいに痛え。見るに耐えなくなって視線を下ろしてみると、榎本さんに挟まれてる部分から腕の先が痛みを発しなくなってきて、両手が漫画みたいに青ざめてきた。
 これは早く返事をしないと両腕がお陀仏になっちまう。今のうちに楽にしてもらって病院生活していた方が、クラス男子たちの一部(以降、過激派と呼称する)の、肉、焼いちゃう? 的な軽ーい感じで、世紀末も尻尾をまいて逃げ出すような暴力に訴えられかねない学校生活から幾分脱出できるかもしれないと思ったけども、自分の体は替えが効かないので。
「ア、ウン。ソウナンダヨネー」
「じゃあ、行こっか」
 そして俺は、クラスの注目の的になりつつ、半ば強制的に榎本さんと帰宅することになった。
 そんでもって、俺の三歩先をそそくさと歩き「あのさ」「何?」笑顔のまま目の奥が氷点下マイナス(日本列島からブラジルまでマントルをぶち抜いて一直線で繋げたほどの距離分)まで達している榎本さんの、気安く話しかけるんじゃねーぞ、おぉん的オーラを全身に浴びながら、一体全体どこに連れて行かれるんでしょうかねぇ? とあっけらかんと切り出せるほど自尊心が育っているにはいるけど、本能がそれを止めろと訴えかけてきたので、何一つ会話という会話が生み出されないまま、ついぞ、めちゃくちゃ立派な高層ビルの前に立っているわけで。おまけに、首が折れるんじゃないかというくらい直角にビルを見上げているところなわけである。
「こんなビルに人って住めるんですか! 人類の不思議ですよ」
「これが資本主義の闇ってやつか・・・・・・ちくしょう、もたざるものは搾取されるだけなのか・・・・・・否、断じて、否!」
「何をごちゃごちゃと話してんの、寒いから早く入って、置いてくわよ」
 榎本さんはエントランスのロックを外すと、さもゴミムシを見るような目つきで急かしてきた。
 意外と俺、ぞんざいに扱われるの嫌いじゃないのかもしれない、と新たな嗜好の片鱗を垣間見つつ、チリひとつ落ちていないぴっかぴかの床を汚さないようにつま先で歩き、古今東西の贅という贅を集約したような豪華絢爛なエントランスを抜け、エレベーターに入る。
 二人っきりの密室空間の中で、かつ、互いの呼吸音がわかるんじゃないかというほど静謐な空間の中で、榎本さんはスマホ画面を超高速フリックしていた。その速さといったら、ソニックブームを穿つくらい造作もないと言ってもあながち間違いではないほどのものであったから、何だろう、そんなにメッセージを送れる相手先いるの? と、俺の連絡先である、父、母、それと、激安贅沢コピー品とかいうわけわからん業者を含めた三つしかない連絡先の少なさ、それと、業者を除いた、両親との間で形成されたメッセージの一部「いまから帰る」(既読)「やっぱり遅くなる」(既読)しかつかない、この「放任主義って聞こえはいいけど、そのスカラーがしきい値を超えればネグレクトだよっ」て児童相談所に訴えてやりたいくらいの親子関係に涙がちょちょぎれそうになりつつ、ついその内容が気になって、つるの恩返し的な『開けてはなりませんと言われたら、そりゃあ開けなきゃ駄目でしょ』みたいなノリで画面を覗いた。
 これは、日常のできごとをつぶやくやつか? そのホーム画面に見覚えがあった。確か、二、三年前に親戚に推し進められてアカウントを作って『きょうの晩御飯はカレー』とかいうクソどうでも良いことをつぶやいたっきり一回もログインしていなかったのだが。
 どんなことつぶやいているんだろうか? あれか『きょうはいい天気ー』とか、『三年間頑張ろー』とか、『きょうは寝坊しちゃったー、でも遅刻はだめだよね』とか、そんな能天気で、希望に満ちてて、それでいて絵に描いたようなゆるふわな風景を上手く切り取ったつぶやきでもしてるんだろうなぁ、という何の根拠もないただ俺の勝手な榎本ずスタイルから導出された理想像を抱き、つぶやきの一部を見たのだが。

ハンドルネーム・ねこねこもふもふ
『寝坊した。入学式だけどくっそだるい。休もうかな』
『隣のやつの目つき怖すぎ。話しかけられるかどうか不安』
『この一年間、今のペースで振る舞うのきついわー。つっても、私なら出来るんだけどね』
 ・・・・・・

 これはあれだ、パンドラの箱だ。開けたら世界を脅かすほどの妬みだとか嫉みだとかいうのを撒き散らすに違いない。
 理想というのは、あくまで理想のままで保存しておくのが一番だ。俺は、何も見なかったことにしよう。つぶやきなうの榎本さんの隣で佇んでいるクロに視線を移したら、両手でやれやれだぜっていう感じのジェスチャーをしていた。なるほど、だからあのときにため息ついてたのね。
 この実情を、今すぐにでもクラス中にぶちまけたい。オレ一人だけーーそれと、クロと、春香・・・・・・は見ているかどうかわからないから除外して一人と一匹かーーが担うには余りにも重すぎる! 秘密を持ち続けるのは難しいって、今になって分かったような気がするよ。父さん、あのときは、ごめんね。
 とはいえ、クラスに話しかけられる友達はいないから、この秘密をぶちまけようにも不可能なんだがな! という結論に至ったので悲しくなりました。
 まぁ、それはそれとして、つぶやきのなかに出てくる榎本さんの『隣のやつ』を考えてみると、多分、いや、十割俺のことだ。そんな自意識過剰の発言をしたのにも理由があって、入学式のときに榎本さんの隣に座っていたのは、俺と、三組の名前も知らないおっとり系女子であったし、教室においては、榎本さんは一番廊下の方に面した所に座しており、隣は俺しかいないわけだし、なにより目つきの悪さは、県で一、二を争うレベルだと自負しているから杏子先生とは数値の上で同レベル・・・・・・というのはさておき、そういうのを総合的に踏まえた上で『隣のやつ』=俺、になるっていう寸法だ。
 にしてもハンドルネーム・ネコネコもふもふって、そんな可愛いらしい名前をわざわざ入力したんだとか思って不覚にもにやにやしてしまったのだが、
「何ニヤついてんの? 気持ち悪い」
「・・・・・・あっはっは」
 いつの間にかスマホをしまっていた榎本さんに、ひどく冷淡な声音で毒づかれたので愛想笑いを返した。
 もう俺、家に帰っていいかな。面と向かってディスられたことがないから、こういうときにどんな顔をしていいかわからないの。それでも、今の気持ちを素直に表現するなら、泣きたい。今すぐあったかぬくぬくお布団の中で、涙がかれるまで嗚咽を漏らしたい。
 春香はそんな絶賛メンタルブレイク中の俺の頭をなでなでしつつ、無言で首を縦に振っていた。
 春香たああああああん、うわああああん。今すぐにでも抱きしめたい。榎本(お前なぞ現時刻をもってして、今後一切、冠婚葬祭、さん付けで呼んでたまるものか!)、お前がどんだけ蔑んでこようとなぁ、俺には愛しの春香たんがいるからいいんだもん!
 というわけで、春香とぎゅっと抱きあっていたら(もちろん形だけだけど)、僅かな浮遊感と共に厳かに扉が開いた。
 榎本はこれまた新品の革靴をかつかつと鳴らしながらエレベーターを出たので、俺もこれ以上注意されないように後に続いた。この短時間での成長っぷりを、秘められた賢しさを、家に帰ったら春香に存分に褒めてもらおうとか考えていたら、一番最奥の無機質な扉の前に止まった。
 榎本はぎこちない手つきで扉を開けると、
「入って、狭いけど」
 促されるままに扉の中に入り、榎本は後ろ手に、丁寧に扉を閉めた。
 靴を脱ぎ、猫の頭が可愛らしく装飾されたスリッパに履き替えると、榎本は部屋の電気を付けた。
「これまた広いですよ!」
「だなー」
 教室の大きさは余裕で超えているほどのリビングの広さに驚きを隠せなかったが、ただ、あまりにも置かれている品々が精緻に配置されすぎているせいか、人が住んでいる気配というものが微塵も感じられなかった。
 榎本はリビングから一連に続く台所越しに、
「飲み物は何がいい? コーヒーとお茶、ジュースとかあるわよ」
 と、事務作業のように淡々と尋ねた。
「コーヒーで」
「砂糖とミルクは?」
「ノースウィート」
「ちょっと着替えてくるから、テレビでも見てくつろいでて」
 榎本は、コーヒーメーカーのスイッチをぽんっと押すと、自室だろうか、部屋に消えて行った。
 ふっかふかのソファの上に腰を下ろし、壁に埋め込まれた超絶大型ワイド液晶テレビの電源を点ける。テレビにはきょうも変わらず、辛気臭いニュースの羅列が絶え間なく映っていた。自分のところとは遠くかけ離れたおとぎ話のような、現実味のない事実郡。ただでさえ身の回りの出来事で手一杯な俺は、こういったものに共感だとか憐れみを覚えるほど出来た人間ではない。なので、最低限きょう起こった出来事を知識として蓄えて、お笑い番組に変えた。
 お笑いというのは非常に興味深い。歩くようなスピードで進行していく語り口に、張り詰めていた緊張が徐々に緩和していく気がする。
「ほほぅ、このおちも、なかなかいいですよ」
「これは勉強になるなぁ」
「でも実践の場が無いですよ、ご主人」
「それを言っちゃあ、おしめえぇよ」
 と、春香と他愛もない話をしながら五分くらい経った頃。
「はい、これ」
「ああ、ありがとう」
 榎本は猫柄の白色マグカップに入ったコーヒーを手渡してきた。
 淡いピンク色の猫耳付きもこもこトップスに、同色のショートパンツ、後ろにゆるくまとまっていた髪は解かれ、肩までまっすぐ伸びている。
 榎本は俺の隣に人一個分のスペースを開け、黒い猫頭スリッパを脱いでソファの上に体育座りすると、目前に掛かっていた黒髪を掻き上げ、そして、俺とは色違いの黒色マグカップを両手に持ち、ちびりちびりと啄むように一口づつ飲み始めた。
 可愛いぜ、ちくしょう。あの暗黒面にどっぷりと浸かっていたつぶやきを見ていなかったら、脳内お花畑の世界で一心不乱に裸踊りができたんだが、土台中身が中身だけにそれは無理なお話だ。
 榎本の内面性について再確認したところで、改めて暗黒仮面の方を見ると肩をぷるぷると震わせていた。
 寒いのか? ブレザーを上から掛けてあげようかなと思っていたのもつかの間、
「やばい・・・・・・もう無理・・・・・・」
 マグカップを机の上に勢い良く置くと、ガバッと立ち上がり、切れ長の目を細め、舌なめずりを始めたじゃあありませんか。これは得物を狙う目だ。およそ人間が俺の大事な春香にしていい目ではない。
 手をわしわしさせながら、俺の横に座っていた春香の元へと、
「怖くないよー、怖くないよー」
 すり足でじりじりとにじり寄る。
「ご主人、これは何か嫌な予感がするですよ!」
 確かに、この様態は春香のことを今すぐにでも獲って食いかねない勢いだ。
 榎本、貴様は俺だけでなく春香をも手に掛けようとしてるのか! 許さん!
「おい榎本、なにしようとしてんだ」
「そこをどきなさい。どかないんだったら、今すぐ楽にしてあげるわよ」
 間に割って入った俺をぎらりと睨みつけ、拳を掌に当ててぱちぱち叩いている。
 恐えよぉ。いますぐ楽にってどういうことだよぉ。極楽浄土への片道切符になりかねないようなどす黒オーラを背中に纏ってるじゃねぇかよぉ。
 榎本さんて左利きなのね、って今はそんなことを考えてる場合じゃねぇ。
 俺はあの日、鈴懸の樹の下で春香に誓ったんだ。

「君のことを絶対守る」って。

 まぁ、嘘だけど・・・・・・そんな約束したわけでもないし、絶対なんてのは絶対に無いし、痛いのは嫌なのでおとなしく下がることにします。
「ご主人!」
「許せ、春香!」
 俺は暴力に屈した弱い男なんだ。笑いたきゃ笑えよ、って悲観的になっていたところ、
「もふもふ〜、もふもふ〜」
 榎本は春香の体をものすごい勢いで弄んでいた。実際には空気に触れている感じなのだろうが、思い込みってすごいんだな。本当の猫をもふもふしているみたいな感じで柔和な笑顔を浮かべてる。その一方で、春香の眼から一筋の涙がぽろりと落ち、その眼は色を失っていた。
 ご冥福を祈ります。
 手をパチンと合わせて、春香の新たな旅路の幸運を祈ることにする。
「死んでないでしょ」
「あいたっ」
 クロはどっからか生成したハリセンで俺の頭を叩いた。物理的に痛みが発生しているわけではないが、気持ち的に痛い。
 そんな頭をさすりつつ、
「なぁ、クロ、これっていつになったら終わるんだ?」
 と、尋ねた。
「さあね、参考になるかわからないけど、私の時は一旦美月のスイッチがオンになったら平均一時間くらいはあのままよ」
「まじかよ・・・・・・」
 無理に引き離そうとすれば、天地開闢を引き起こせそうな威力の鉄槌が飛んできそうなので『きょうはちょっと遅くなる』という言伝を母さんに送り、テレビを見ることにした。

「さてと・・・・・・」
 ほんとに一時間くらい経った後、榎本はもふもふ成分を補充して満足したのか、俺と下校してたときとは打って変わって、憑き物が落ちたかのような至高の笑みを浮かべながら手を二、三回パチンと叩き、ソファの上に戻った。
 俺はペルシア絨毯の上でぐったりとしている春香の頭を撫でつつ、
「こんなことをするためだけに俺を連れてきたんじゃないんだろ?」
 と、確かめるまでもないことを尋ねた。
「え? そうだけど」
「えええええええ」
「冗談よ」
 榎本はふふっと微笑むと、自分の隣のソファをぽんぽんって叩いた。座れってことか? おとなしく従うことにする。
「一応改めて自己紹介しておくわね。私は榎本美月。そして、こっちは黒猫のクロ」
「よろしくね、薫さん」
 榎本とクロは軽く会釈した。俺もすかさず会釈する。
「俺は猫宮薫、んで、こっちでぐったりしてんのが春香・・・・・・なんだが」
 これは言って良いものなのか、榎本の方をじっと見て悩む。
「どうかしたの?」
 人とあんまり会話してこなかったせいか距離のとり方がいまいち分からん・・・・・・が、これ以上返答を待たせても仕方ない、当たって砕けろだ。
「その・・・・・・学校とは、なんというか、えらく違うんだな」
「ああ、学校ね・・・・・・あれは私に課せられた義務みたいなものなのよ。できることなら従いたくはないけど、ほら、私って、見るからに委員長じゃない?」
「まぁ、たしかに」
 自分から言ってて恥ずかしくなってこないのだろうかとの思惑が去来したがスルーして、
「だったら外見のイメージを変えてみたらどうだ? うちの高校って髪を染めても大丈夫だったはずだから、髪を金色にしとけば少なくとも委員長みたいな真面目生徒としては見られなくなるだろ」
「それは嫌よ。わざわざありのままの容姿をいじってまで取り繕うのも面倒じゃない」
 じゃあ、あーだこーだいうなよって思ったのは秘密です。
「まぁ、分からんでもないが」
「それにね、何だかんだ自分から会話を引っ張って主導権を握るほうが楽なのよ。好き勝手なことを喋れるし、人の話なんて話半分に聞いてあげれば良いんだし」
「そんなことを俺に言っていいのか?」
「問題ないわよ。だってあんた、友達いなさそうじゃない」
 友達いなさそうじゃない・・・・・・
 いなさそうじゃない・・・・・・
 じゃない・・・・・・
 俺の頭の中で、聞きたくないセリフナンバーワンのキリングセンテンスがリフレインされている。
 電池の切れたロボットみたいにピタッと止まっていた俺に向けて、
「冗談よ」
 榎本は軽く舌を出すと、ニコッっと微笑んだ。
 冗談きついぜ、おい。
 ってか、本当に冗談だよな?
 つぶやき暗黒仮面のお方のことだ、これ以上聞くのは止めておこう。
 榎本は話を続けた。
「猫好きの人には悪い人がいないってのが私の信条よ。だからあんたには私の素の部分を見せられるの。初めてあんたを見たときは、なんか目つきとか怖い印象あって話しづらかったけど、なんてったって、目に入れても全然痛くないくらいの随分としおらしい猫娘が憑いているんだもの。そんな関係になるくらいなんだから、よっぽど大事に育ててきたんでしょ? じゃなきゃ、そこまで人間になつかないわ」
「そんいうもんなのか?」
「うちのクロなんて全然、ぜーんぜん、触らせてくれないんだから」
「それは美月が、私が猫だったときにべったべったべったべった、家にいるときなんかずーとひっついてきたからじゃない。私はそういうの、嫌いじゃ、ないけど、好きでも、」
「そうだったの、嫌いじゃないのね。なら安心してと」
「ひっ」
 クロは、ぎんぎらぎんにさり気なくない榎本の諸手わしわしを前にして、まだぐったりしていた春香を盾にしていた。
 おい、やめろ。春香のライフはほぼゼロだ。
「それより本題の方を頼む。そろそろ帰らないと親に通報されかねん」
 多分、一週間くらいまでは連絡さえしておけば家にいなくて平気だと思うけど、圧倒的もふもふタイムが追加オーダーされる可能性大なので、春香のライフがゼロになる可能性が否めん。
 榎本は一瞬だけうつむくと、
「冗談よ」
 ソファに座った。
 冗談よっていっておけば万事オッケー、とか思ってませんかね、この人。
 仕草とかが可愛いので、よしとしておきますけど。
「あんたは猫娘の件についてはどこまで知っているの?」
 榎本は、ソファの端っこの肘掛けのとこに頬杖をつきながら話し始めた。
「人間の悩みごとを解決したときに出てくるものを集めるのが、猫娘の役割っていうのを聞いたが」
「間違いじゃないけど、少し補足させてもらうね」
 クロが割って入る。
「悩みと言っても、何でもかんでも解決してあげればいいってもんじゃないの。あくまで、人間の道理に反しない範囲でっていうのが条件よ。人のものを奪ったり、殺したりっていう悩みを解消しても意味はないわ」
「なるほど」
 その辺に関しては、叶えられもしないものであったのでありがたい。
「それに、猫娘の事情を識っている者同士での悩み相談もカウントされないわ。そんなことしてたらなんでもありになっちゃうしね」
「身内同士の談合はできないってことね」
 榎本は一言述べると、ちびちびマグカップに口をつけた。
 ということは、さしあたっての問題は、人間の悩みを解決するにあたって猫娘がどの程度の助力になるかどうかか。
「じゃあ仮にだ、俺が猫娘憑きっていう条件は別として、榎本と付き合いたすぎて夜も眠れないんだけどどうしよう、って猫娘に相談したら、そういった悩みを直接叶える能力って猫娘に備わってるのか? 例えば、睡眠暗示をかけて付き合ってることにしちゃうとか」
「私に相談してくれれば、そんな悩みなんかソッコーで解決してあげるわよ」
 榎本は左右の腕を交互に、勢い良く突き出したり引いたりとシャドーボクシングを始めた。
 永眠に眠らせるっていう解決手段ですね、わかります。
 思いつきで提示した例に対してそこまで露骨に拒絶されるとは思わなんだ。
「・・・・・・例えばの話だよ」
 ちょっとは期待している自分もいるとは口に出して言えないけどな!
「いいえ、残念ながら無いわね。私たちの出来ることはあくまで、憑いている人間の観測役だけ。そもそも私たちは、現実に存在する物を持ったり、動かしたりすることはできないのよ」
「ってことは、人間の悩みを解決する上での主体はあくまで俺たちであって、地道に手足を使っていくしかないってことか」
「不便を掛けるわね」
「いや、別に、気にすんな。生き返って一緒にいてくれるってだけでも俺にとってはありがたいよ」
「それは私も同意ね」
 クロは顔を真っ赤にしてうつむくと、
「こほん・・・・・・とにかく、私たちの責務を果たすためには、あなたたちの協力が必要ってことになるわ」
 と、言った。
 すると、榎本は、
「問題は、どうやって解決するか、なのよねぇ」
 と、ため息混じりに弱々しくつぶやいた。
「ん? 榎本のところだったら、教室の連中が嫌でも集まってきてなんかしらの相談事をふっかけてくるだろうよ。それを逐一満足させてやれば、」
「だからよ」
 榎本はちょっとだけ背伸びをすると、掌を口に添えつつ、欠伸を漏らした。
「どういうことだ?」
「人が集まってくるからといって、年柄年中相談事ばっかり受けられるわけでもないでしょ。それこそ、きょうは何食べたの? とか、放課後どっか寄っていかない? とか、そういうケースに付き合ってあげなきゃいけないときもあるに決まってるわ。そんなのに合わせ続けるのは正直だるいし、面倒なの。だから私が求めるのは、そういうのを極力避けつつ、悩みを解決してあげるためのまとまった時間を確保するってこと」
 贅沢な悩みですこと。
「人気者も大変なんだな」
「私が選んだ道だから、仕方ないっちゃあ、仕方ないけどね。愚痴りたくなるときもあるわよ」
 榎本は無理に笑おうとしているせいか、引きつった笑いになっていた。
 その笑みは、一人であれもこれも溜め込んでいった俺のものとどっこか似ていた。両親を心配させるのだけは良くないと、鏡の前で毎朝笑顔の練習をしていた際の、あの無理に浮かべていた俺のものと。
「俺で良かったらいつでも愚痴れよ。そういうの漏れる心配ないしな。俺は友達、いないから」
 榎本は、少しばかり垂れている目をまん丸く開き、
「ふふっ、あんたって結構根に持つタイプ?」
 と、薄ら笑いを浮かべた。
「ちげーよ。人が真面目に、」
「冗談よ」
 榎本は初めて俺に見せたときの笑顔でじっと見つめてきた。
「ありがとね」
 正直に礼を言われると、何だかむず痒いな。
 俺は頭の後ろをぽりぽりと掻くと、
「じゃあ、お前の要件を満たすんだったら、何かの部活動とか入ってみるのはどうだ? うちの学校って、圏内でも結構な数の部活動があるだろ」
 と、言った。
「そう思ったんだけどね。どれもこれも全然駄目そう。ぱっと見ボランティア部ってのがばっちりなんじゃないかと思って、校内サイトの活動目録を見てみたんだけど、ボランティアとは名ばかり、内申書にいいことを書いてもらうための火葬場になってたわ」
「ふーん」
「ふーんて、あんたも一応当事者なんだから真面目に考えなさいよ」
「うーん、既存の部活でいいのがないっていうなら、新しく部活動を作るっていう手もあるが・・・・・・その申請を通すのも既に似たような部活もあるし、難しそうだしなぁ」
 胸ポケットに入れておいた生徒手帳を取り出し、その後ろの方に書いてあった部活動申請手続きの項目を斜め読みしてみるが、既存の部活動との類似内容における新規部活動申請は原則として認められないと但書があった。人の悩みを解決するっていうのは、形骸化しているにせよ、ボランティア部と類似しているため、新たに申請するのは容易じゃないだろう。
「新しく部活を作る・・・・・・」
 首を小さく傾げてぶつぶつ何かを唸っていた榎本の目が、水を得た魚のようにパーッと輝き始める。
「そうよ、何でもっと早く気づかなかったのかしら」
 勢い良くソファの上に立ち上がり、
「部活を作るのが難しいなら、同好会を作ればいいんじゃない!」
 パンがなければお菓子を食べればいいじゃないとかいう、本来の意味において内容をちょっとランクダウンさせた発言をすると、ご立派な胸をこれでもかと張った。
 同好会の発足について、という項目を見てみると、『同好会の発足に際して顧問職員を最低一名おき、同好会代表者が生徒会長に届けを出した後、部活動代表者会議にて審議の上、過半数以上の賛成で可決されれば設立』と書いてあった。
「それなら似ている内容でも活動できるな・・・・・・だが、水を差すようで悪いが、同好会を作るにしたって部活動の申請よりかは楽だけど、それでも、顧問の先生を最低一人は確保しなきゃならんし、活動場所の確保だってあるだろ?」
「大丈夫、大丈夫。心当たりはあるから」
 榎本はシュタッとソファから降りると、机の上に置いてあったスマホを手に取り、どこかへとメッセージを送り始めた。
 榎本の素早い指の動きで形成される文字入力が終わってから数秒した後、にゃー、にゃーと猫の着信音が鳴った。
 榎本はその返信内容をささっと確認して、うんうんと頷くと、画面から顔を上げて、
「早速だけど、明日の朝七時に学校の教員室前に集合ね」
 と、声高らかに宣言した。
「ええー、朝早いのはちょっと」
「返事は?」
 本日二度目の凄みが、俺の目の前、半歩歩けば接吻できる距離にて繰り出される。それと同時に、天鵞絨のようにふぁさっと広がった黒髪から、ふわっと甘い香りが漂ってきた。
 やばい、抱きしめちゃいそう。
 しかし、そんな甘ったるい濃密な空間に佇んでいるにも関わらず、掴まれていないはずの俺の両腕が阿鼻叫喚を撒き散らしていた。
 人間の防衛本能ってすげぇと思いつつ、
「ハイッ」
 と、素早く返事をした。
「よろしい」
 榎本は身につけていた服を正し、二、三回咳払いをすると、
「きょうは、無理やり連れてきてごめんね」
 両手を合わせて、俺の前で四十五度の礼をびしっと決めた。
 急に真面目な態度で謝られたもんだから若干後ずさりしつつ、
「お前に連れて来られてる時なんて、絞首台に向かってるんかと思ったわ」
 と、冗談めかしに言った。
「あれは・・・・・・その・・・・・・」
 榎本は頭を上げると、両手の指先をいじいじして、顔を僅かに紅潮させた。
 何この可愛い生物。やっぱり抱きしめておけばよかった!
「ああでもしないと、その・・・・・・春香ちゃんを、あの場でぎゅっとしちゃいそうだったからよ」
 ソファの上でクロと一緒にテレビを見ていた春香の身体が、ビクッと震える。
「あzqwxせvrfんふjみ」
 春香は、もはや人間の言葉とは思えないような音を発しながら白目をむいた。それほどまでに、先の出来事が壮絶だったのか。
 トントンと春香の肩を叩いてやると、
「はっ、ここは一体」
 涅槃からなんとか無事に帰ってきたようだ。
 春香は、全身の毛という毛を逆立て、榎本に対し敵意をむき出し始めた。
「悪気はなかったみたいだし、許してあげな、春香」
 優しく、諭すような感じで頭を撫でてあげると、春香の毛は重力に従った。
 春香は、ふてくされた表情を浮かべつつ、
「ご主人がおっしゃるなら、許してあげなくもないですけど」
 と、言った。
「そうなの、じゃあ」
 先程までの誠心誠意の謝罪はどこえやら、榎本はケロッとした表情で手をわしわし動かし始める。
「家の娘がまた涙目になってるでしょうが!」
 榎本の蛮行を、極めて冷静に、なおかつ、北○国からを意識して制する。
「冗談よ」
 榎本はこれまた憎めない笑顔を呈すると、
「それじゃあ、明日、学校でね」
 と、言った。
「ああ、善処するよ・・・・・・行くよ、春香」
 春香は、うるうるお目々をごしごして、玄関に向かう俺の背中に寄り添うようについてきた。
「おじゃましました」
 玄関を出ると、榎本はそのままの恰好で後からついてきた。
「何か買い物でもあるのか?」
「あんたが外に出るまで、送ってあげるわよ」
 内廊下にほどよく空調が効いてはいたのだが、榎本にとっては薄手の恰好で出てきたため肌寒かったのだろう、両手を掻き抱きぷるぷると震えながら、俺の三歩後ろを甲斐甲斐しく歩いている。その姿は、下校時の力強い印象とは違って、触れたら壊れてしまいそうなほど華奢に見えた。こういうのに、俺は弱い。
 身につけていたブレザーを脱ぎ、榎本の前に差し出す。
「よかったらこれ使えよ」
「遠慮するわ」
 榎本は俺のなけなしの良心に食い気味に、片手を前に出して拒絶してきた。
「さいですか」
 あまりの拒絶の速さに涙目になっていたら、
「あっ、ちがっ、そういうんじゃなくて」
 榎本は、何かを言いたげに口をモゴモゴ小さく動かした。
「ん?」
「あんたが風邪を引いちゃうと、明日からの活動に支障をきたしちゃうから」
 榎本は、蚊が鳴くような声でつぶやき、顔を真っ赤にするとプイッと顔を背けた。
 俺は、春香とおんなじくらい、いや、それ以上の可愛い生物を見つけてしまったのかもしれない。エレベーターに乗っているとき、心臓の高鳴りが聞かれているんじゃないかとヒヤヒヤしたもんだが、当の榎本は欠伸をしながら目を擦っていた。
「わざわざ見送りに来てくれてありがとな」
「これくらいどうってことないわよ」
 マンションを出ると、四月にしては珍しい強烈な寒さが襲ってきた。顔の辺りに、鋭い寒さがまとわり付く。
 榎本は、より一層身体を小刻みに震わせつつ、外に出ると、
「気をつけてね」
 と、言った。
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 榎本とクロは、俺の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
 確かに、猫好きには根っから悪いやつはいないのかもしれないなと思いつつ、帰路についた。

 翌日。朝七時の教員室内。
「嫌よ!」
 寒々しいそこには、俺と、榎本と、そして、短く切りそろえていた髪をぶんぶん左右に振り、酒ヤケした声を荒げている白衣姿の先生がいた。
 年の功は二十台後半だろうか、ナチュラルメイクから伺える顔の造形は、タレ目がちで太眉、ほっぺは丸く、ぽてっとした唇と、どことなくその雰囲気は榎本に似ていた。真っ平らな胸を除けば。
「今年は部活動の担当が無いんでしょお姉ちゃん! すでにリサーチ済みなんだから言い逃れ出来ないわよ」
「やるじゃない、美月・・・・・・って、学校では先生と呼ぶように」
「いてっ」
 先生はハードカバー仕様のクラス名簿の背で、榎本の頭を小突いた。一年三組と名簿に書いてあるってことは、当てにしていたのは隣のクラスの先生だったのか。まさか榎本の姉ちゃんだったとはな。
「美月が珍しく緊急事態だと連絡をよこしてきたから可愛い可愛い妹に何かあったらいけないと決死の思いを内に秘め二日酔いでガンガン痛む頭を休ませる暇もなくもんもんとした面持ちで学校にきてあげた、のに、肝心の要件といったら名前すら決まってない同好会の顧問になって下さいですってぇ」
「嫌ったら嫌!」
「ただでさえ実家からやっとの思いで逃げ出せてこのユートピアにひげ根を下ろし始めたばっかりな、のに、美月が入学してくるだけでなくあまつさえそんな面倒の極みを押し付けてくるなんて・・・・・・お姉ちゃんは悲しみのクレバスに足がズボッとはまって身動き一つ出来やしないわよ」
 先生は早口でまくし立てると、哀れみの表情を浮かべた。
「ほぅ、そんなこと言っていいんだ」
 榎本は不敵な笑みで長ったらしい文句をばっさりと切り捨てた。
「な、何かおかしなことでも言った?」
 先生は俺の方を向いてしどろもどろになっていたので、首を横に振って助け船を渡してあげた。別段、間違ったことは言っていないと思う。強いて言うなら、身振り手振りを用いていたから、身動き一つ出来ないっていう最後の一言はちょっと違うんじゃないかと思ったりはしたが、瑣末な問題なので突っ込むのはよそう。
「父さんに報告しちゃおっかなぁ、お姉ちゃ・・・・・・美晴先生が日常業務に支障をきたすほど毎日お酒を浴びるように飲んで、所構わずグータラしてるって」
「な、そんな、殺生な! 平日はね、震える手を収めて缶ビール一日十缶に止めてるんだよ!」
 いや、十分多いよ。てか、アルコール依存症じゃねぇか、美晴先生。
「父さんは怖いよねーせっかく親元から離れて一人暮らしを始めたばっかりな、のに、家に帰ったらいつの間にかそこは引き払っちゃった後でもぬけの殻になってるかもしれないもんねー」
 榎本は勝ち誇った表情を浮かべていたが、やめて差し上げろ。いい年した大人が目も当てられなくなってくるほど震えてるじゃねえか。
「それを言うなら私だって、あんたが学校生活ちゃんと送れてないって父さんに連絡するよ?」
「いいわよ」
 榎本は、そういう脅しはさもありなんという飄々とした態度で返事をした。
「だけど、その覚悟は出来てるんでしょうね?」
 俺にこれまで二回見せた凄みを、美晴先生の目前に炸裂させていた。それは、当事者になって初めてわかったことなのだけれど、傍から見ていてもすげぇ威圧感だった。
 美晴先生は、天敵にフォーカスされた小動物みたいに、
「な、何よ」
 と、震え声で必死に抵抗していた。
 榎本は美晴先生から顔を離し、
「あーあー大事な大事な妹が勘当されて路頭に迷ってもいいんだーお腹を空かしてどこぞの知らない男の元へとついていっちゃうかもなー」
 と、口笛を吹くくらいの調子で言った。
「それは駄目よ!」
 見晴先生は目を血走らせながら口角泡を飛ばし、榎本の腕をがしっと掴むと、何故か知らんがはぁはぁ息を切らしていた。
 妹のことが単に心配だからだよな? 俺は美晴先生の机の上に置かれていた、スマホだとか、財布だとか(どれもこれも、見晴先生と榎本のツーショット写真が添えられた)を横目に、きっと、榎本と男のくんずほぐれつとかいう邪なことを考えているわけじゃないよな、だって、教師という学生にとって模範であるべき人なのだもの、と一人ごちた。
「なら」
 榎本は、掴まれていた両腕を振りほどくと、
「はいっこれ、ここに名前と判子を押してね」
 通学用カバンから意気揚々と同好会設立許可願いを出した。
 美晴先生はそれをひったくるように取ると、
「やるからには徹底的に活動してもらうからね。どんな活動か知らないけど内容が決まったらちゃんと報告しなさいよー」
 と、捨て文句を吐きつつ、すらすらと達筆な文字を書いて判子を押した。
「ほら、もってけ、コノヤロー」
「受け取ったぞ、バカヤロー」
 榎本は書類を受け取ると、満面の笑みで俺の腕を引っ張って教員室の出口へと向かった。その様子を、美晴先生は物欲しそうな顔をしながら眺めている。
 俺の目に狂いはなかった。やっぱりこの人、重度のシスコンだ!
 教員室を出る前に美晴先生に頭を下げると、美晴先生はキリッとした表情に改まり、軽く手を振ってくれた。
「やり口はさておき、これで同好会の顧問はいいとして、活動場所はどうするんだ?」
「それをこれから探しに行くんじゃない」
「これから?」
 空いている部屋を探しに練り歩くたって、うちの学校の広さじゃ少なく見積もっても一時間はかかるぜ? しかも、入学式の次の日、つまりはきょうから英単語の小テストが朝に課されるというのに、そんな悠長な構えで大丈夫なのだろうか、俺は暗記物は得意でないから大丈夫じゃない。
「何か文句でもあるの?」
「使われていないところを見つけるにしたって、うちの学校の広さだぜ? 朝の英単語テストに間に合うかどうかすらわからんだろ」
「そんなもの、受けても受けなくても変わらないわよ。受けてなくたって出題された英単語を繰り返しプリントに写経して先生に渡せばいいだけでしょ? 余裕よ、余裕」
 そんなのでいいのか委員長(仮)。モノホンの委員長が聞いたら「あんたそれでも委員長?」って鼻で笑うぞ。
「お得意の冗談ってやつだろ?」
「私のお株を奪うじゃないわよ」
 自覚はあったんだな。
 榎本は悄然とうつむくと、
「心配しなくても大丈夫よ。目星はついているから安心してついてきて」
 傲然と胸を張った。
「なら、問題ないが」
 と言ったものの、テストに落ちて無駄な時間を過ごすのは御免被りたいので、榎本の後ろを歩きつつ、英単語帳を開いてきょうの範囲を一通り確認し始めた。

「不承不承ながらお尋ねしますが、」
「何よ」
 榎本は、憮然とした態度で応えた。
 だが、現在時刻は八時三十分、四十分から始まる小テストを前にして、予鈴がなった今だからこそ言わなきゃならん。
「自分のことを委員長だとか大仰におっしゃっていたお方が、それも、いけしゃあしゃあと私についてこいとのたまわっていた貴方が、まさかとは思いますが、学校内で迷われたりしなすっているわけではないでせうね?」
「・・・・・・」
「もしかして、方向音痴だったり?」
「・・・・・・」
「何かの冗談、ですよね?」
「・・・・・・」
「・・・・・・ブス」
「おい、それは言いすぎだろ」
 聞こえてんじゃねぇか。
「急いで教室に行かねえと遅れちまう」
「ちょっと」
 榎本の腕を引っ張り、中庭から普通教室棟の一年四組へ向けてひた走る。他の生徒たちがちらちら見ている気がしたが、そんなのを思慮している場合じゃねぇ。今ならなんとか間に合うはずだ。
 八時四十分を知らせる音と同時に教室に滑り込むと、先生はまだ来ていなかった。
「はぁはぁ、間に合っ、た?」
 過激派が無言で立ち上がり、その中で一番図体のでかいやつが俺の背後に回り込むと、羽交い締めしてきた。
「おい、やめろ!」
「大丈夫だよ、先生ならさっき来て、十分遅れるって言ってたから(にんまり)」
 何が大丈夫なのでしょうか?
 榎本は、そんな俺を尻目にするりと腕から抜けると、そそくさと自分の席へと戻っていった。
「え〜、次は〜、地獄の四丁目〜、地獄の四丁目〜、ドアが閉まります。ご注意下さい」
「よかったなー猫宮、間に合ったじゃないか」
「可愛いお顔が得も言えぬ悦びで台無しになっちゃうな〜、たまんねぇぜ」
「○す」
 過激派の連中が、ぞろぞろと俺を取り囲んだ。
 一人だけ極端に物騒なやつがいるぞ! そんでもって、その手に持っているウインウイン動く何かを近づけるんじゃねぇ!
 過激派のリーダー格っぽいやつが俺の目の前に立った。
「貴方に、辞世の句を詠む時間を授けよう」
「おい、嘘だろ」
「アーメン」
「ちょっと落ち着けってさっきのは言葉のあやだ! あー、ほらっ、俺たちは、一年間一緒に学問を修める、言わば学問の徒じゃないか、そんな俺たちが暴力沙汰は良くないって、やるなら学生らしく口論にしよう。それならいつでも受けて立つから」
 無慈悲な機械音だけが室内に響く。
「時として話し合いも大事だよな。仕方ない」
「わかってくれると俺は信じて、」
「他にこの世に言い残したいことはあるか?」
 聞き方変えただけじゃねぇか!
「一旦手に持っているそれを下ろそ。な? な!」
「他には?」
「お〜お〜 さあ輪になって踊ろ、」
「チッ、他には?」
「・・・・・・」
 抗弁したところで現状の改善見込みはないようです。しかも、抗えば抗うほど柄モノが増えています。
 時刻は八時四十五分、先生が来るまであと五分、モザイクの厚さ的な意味で、もう耐えきれません。
 猫宮薫、十六歳、いざ、尋常に。
「優しく、してね?」
「出発進行〜」
・・・・・・
・・・

 そして、「テスト始めるから席につけよー」救世主の介入によって、あの惨事からほうほうの体で抜け出せたわけだが、そんな状態で小テストをまともに受けられるわけもなく(榎本いわく、テスト中、机の上に突っ伏して気絶していたらしい)、
「初テストゼロ点なんて本校初だよ。誇りに思いたまえ。あっはっは」
 と、授業終わりの埃っぽい別室の机の上で、杏子先生から肩をバシバシ叩かれつつ、全くもって嬉しくないお言葉を頂戴した。そんなわけで、春香のいつぞや見た応援団姿のアシストを背に、放課後のひと時を英単語かきかきに割り当てているところだ。
 応援団姿も意外と悪くないな。
「教員室に戻ってるから、書き終わったらプリント渡しに来いよー」
「うっす」
「ついでに、戸締まりもよろしくー」
「うっす」
 杏子先生は特別室の鍵を俺の机の上に置くと、扉を乱雑に開けて、教室へと戻っていった。扉くらい閉めていってくれたっていいじゃないか・・・・・・
 扉を閉めようと別室の扉前に立ったら、夕焼けに生える一筋の影が目に入った。
「もう、終わったの?」
 その影は榎本のものだった。
「あと半分だよ」
「中で待っててもいい?」
「好きにしろ」
「じゃあ失礼するわね」
 榎本は、俺が座っていた椅子の隣にちょこんと座った。と言っても、二つしか席がないから必然的にそうなるのだが。
 後ろ手に扉を閉め、机に座ると、
「よくここがわかったな、普通教室棟からここまでってまあまあ遠かったろ」
 と、ひたすら英単語を書き続けながら尋ねた。
 別室のある教員室・特別教室棟には、物理、科学、生物、といった講義教室から、テレビモニターやプロジェクターが配置された主に講演会に使われる視聴覚室がある。ここ、特別室はそういった教室がまとまった建物の四階隅にあって、講義に必要な小道具をまとめておく物置みたいな感じだった。
「あんたの後ろをこっそりついていったから」
「なるほどね」
 単調な作業というものは、どうも眠気を催してくる。もはや手を動かしているのか、それとは逆に動かされているのか判別つかないほど、思考回路が鈍重になっていた。
 そんな苦行とも言える時間は、ひたすら単語の意味を頭の中でガムを噛みしめるように復唱し、そして、その味が全くしなくなった頃にようやく、ペンを置く音と共に終わりを告げた。
「ふぅ」
「おつかれさま」
 榎本は、新品のペットボトルに入った緑茶を差し出してきた。
「いいのか? これ」
「元はと言えば私がミスしたからだしね。これでおあいことは言えないかもしれないけど」
 榎本は神妙な顔つきになった。
「そういうことをいちいち考えてたらきりないぜ」
 ペットボトルを受け取ると、「いただきます」口を開けて飲み始めた。
「だって、人間生きてりゃ一つや二つ、ミスするもんだろ」
「そうですよ! ご主人なんて、一つや二つどころかいっつもミスばっかりなんですから!」
「そうなの?」
「そうそ、」
「数えだしたらきりがないですよ! きょうなんてですね、しょう油とソースを間違って卵焼きの上にぶちまけてですよ。それなのに特に気にする素振りもなく平然とお腹の中に入れてましたし、靴下の左右の柄をあべこべに身につけてても気にしないし」
 春香さんや、貴方の言動、やけに熱気を帯びているのは気のせいでしょうか?
「ふふっ、それから?」
「それに加えてですよ。ご主人は楽観的すぎるんです! 通行人に飲み物ををぶちまけられても笑顔で対応するし、人の悪口というものを聞いたこともないし、怒ったところをみたこともありません。それでいて馬鹿がつくほどむっつりさんなのです。すーぐ可愛い女の人の姿を目で追っては、至極真面目そうな顔をしつつ、その眼を血走らせています」
「そういうことは俺がいないときに喋ってもらえると助かるのです。聞いてる本人が恥ずかしくなってきたのですよ」
 ミスの話から何でパーソナリティまで話が及んでるんだ?
「聞かせてるんですよ! どれもこれもご主人が、根はいい加減なくせに変に真面目ぶる、からいけないんです! この間だって、」
 春香は、小姑の小言みたいな発言を堰を切ったように吐露し始めた。よっぽど日頃の不満が溜まってたんだな。ほぼ原因が俺みたいで申し訳無さがこみ上げてきたが、それを踏まえた上で一緒にいてくれることを選んでくれたんだから感謝しなくっちゃ。
 とはいえ、耳にタコができるほど母さんにも言われてきたことなので、そんな春香の言葉を右から左に受け流しつつ、
「そんな俺でも何とかなってんだ。いちいちミスしたらどうこうとか気にしてたら禿げちまう。だから、こんどからは貸し借りなしな」
 と、榎本に耳打ちした。
 榎本は胸のつかえが下りたような表情を浮かべると、
「そこまで言っておいてあんたがハゲたら、一生笑いものにしてあげるわよ」
 と、言った。
「うちのじいちゃんたちはハゲじゃないから怖くないもん」
「どうだか」
 榎本と顔を見合わせると、互いに笑い始めた。
「ちょっとー、なーに二人して笑ってるですかー、真面目に聞いて下さいですよー」
「「はい、はい」」
「返事は一回です!」
「「はいはいはいはいはいはい・・・・・・」」
「仲がよろしいことで・・・・・・」
 むすーとしていた春香と、半ば呆れ返っていたクロの視線を受けつつ、たまにはこういう無駄と思える日があっても悪くはないなって思えた。

「それじゃあ、プリントを教員室に置いてくるから、榎本たちはここで待ってろよ」
 席を立ち上がり、扉を開けると、
「美月でいいわよ」
 と、榎本は言った。
「え、何で?」
「あ・・・・・・ほら・・・・・・どうせ顧問になる美晴先生と顔を突き合わせる機会が増えていくだろうし、今の内に区別つけといたほうがいいんじゃないかなーと思って」
「そうか? 先生の呼び方は美晴先生で、」
「いいんじゃない? 榎本より、美月のほうが短くって呼びやすいって私は思うけど。実際、私も美月って呼んでるし」
 クロは俺の発言を遮ると、榎本に目配せした。その視線の先の榎本は、顔を真っ赤にして首を縦にぶんぶん振っている。
 言われてみれば、確かに、榎本呼びしたときに先生も反応してしまうこともあるか。
「そっか、なら、美月」
「何? 薫くん」
 特に用があって呼んだわけではないので、何を話しだしたら良いのか分からん。
『沈黙は金、雄弁は銀』て、どこかの思想家が言っていたけど、何も語られていない空間に佇んでいられるほど、俺は何も出来ない無力感や虚しさに耐える能力、つまりは、「負の能力」を鍛えてないですよ、と言ってやりたい。
 そんなわけで、気まずい空気が流れてるのだが。
 誰かー、この居心地の悪い空気を今すぐ換気してー、と願ってたら、
「こほん」
 杏子先生は、わざとらしく咳をして扉の前に立った。
「やけに来るのが遅いなと思って来てみたら、随分と、まぁ、青春してるじゃないか」
 杏子先生は、手形のミミズ腫れが出来るくらいの膂力で俺の背中をバシバシ叩き始めた。
「いや、別に、そういうんじゃ、」
「若いううちくらいしか羽目を外せないんだからどんどんやりたまえよ。先生の歳になったらしたくても出来なくなるんだからな。あっはっは」
「いや、だから、」
 この学校は人の話を聞かない連中の巣窟なのか?
「ほんっと、若いって良いよなぁ。何もしなくてもお肌つやつやだし、三日三晩寝なくても疲れ出ないし、私なんか寝ても醒めても疲れが残るし、お肌むくむくするし」
「・・・・・・大変っすねー」
 次第に、猛威を奮っていた腕の動きが緩慢になっていき、
「若いって、素晴らしいよな・・・・・・」
 と、杏子先生は自らの地雷源に向かって全力ダッシュした挙句の果てに、遠い目をした。
「用が済んだなら、さっさと出てくれ・・・・・・」
「あ、はい」
 俺と美月を別室から出し、俺の手からプリントと鍵を受け取ると、
「私が教員室に持っていくから、後はお若い二人でなかよしこよしすればいいさ・・・・・・」
 と、刻の涙をこぼしつつ、扉を施錠し、背中越しに右手を振りながらとぼとぼと教員室に歩いていった。
 俺たちに出来ることは、そんな先生の後ろ姿を、ただ呆然と眺めていることだけだった。
 先生の姿が階段下に消えた頃、美月は俺の脇を小突いた。
「何か変な勘違いをされたままな気がするけど」
「ほっといてあげよう。それが一番だと思う」
 触れたら壊れてしまいそうな杏子先生の後ろ姿を偲び、おれはぽつりとつぶやいた。
「さて、と」
 背伸びをして深呼吸をはさみ、英単語かきかきの代償で凝り固まっていた筋肉を弛緩させる。
「同好会の件だけど、結局場所はどこなんだ?」
「そこよ、そこ」
 美月の指差した方を見ると、そこは特別室の隣の第二準備室と書かれた部屋だった。その部屋の中はすでに明かりが灯っている。
「人がいるみたいだけど?」
「まあまあ、まかせなさいって」
 一抹の不安を覚えたが、美月は扉をあけて中に入っていった。俺も遅れないように後に続く。
 壁際には化学の実験で使うような薬品がずらっと置かれており、棚が無い方の壁には移動式のホワイトボード、室内中央に二人がけのソファが合い向かいに置かれていた。そして、室内の最奥、つまりは窓際に面した教卓で、白衣姿の女性がすやすやと寝息を立てている。
 女性を起こさないように小声で美月に尋ねる。
「もしかして、あそこで寝てるのって美晴先生か?」
「そう・・・・・・みたいね。昨日、三組の子から、美晴先生は授業終わりはここで休んでる、ていう話を聞いたんだけど、間違いなくて良かったわ」
「だったら最初からここに来ておけば場所の確保は余裕だったろ?」
「頼りっぱなしっていうのも美晴先生に悪いと思ったから、この部屋は最後に回してたのよ」
「だけど、ここに来たってことは、他の教室にあたってはみたもののどれも既に何らかの活動で確保されてたってわけか」
「ご名答」
 美月は少し埃をかぶっていた奥のソファの上を手で払うと、そこに腰掛けた。
 俺は対面のソファに座り、「起こさなくていいのか?」と尋ねたら、美月は顔を横に振った。
「自分から起きるまではちゃんと寝かしてあげて欲しいかな。普段、資料作りとか、テスト作成とかで大変みたいだし」
「あんだけ脅迫じみたことをしておいて、なんだかんだ姉ちゃんのこと大事にしてるんだな」
「そりゃあそうよ。曲がりなりにも血の繋がった家族なんだもの」
「・・・・・・血の繋がった家族、ね」
 俺にしてみれば、血が繋がっているとかいないとか、そんなものは対した問題ではなかったが、それぞれの家庭の事情というやつもあるんだろう。それを深く詮索することはせず、美晴先生が起きるまでの間、明日こそは英単語テストでちゃんと点をとらなきゃいかんと、明日の範囲の英単語を小さく空に唱えながら時間を潰すことにした。美月はというと、手のひらサイズの文庫本を読み始めた。
 ページを繰る音がぱたりとしなくなった頃、美晴先生は「ふっ、んー」と大きく背伸びをすると、丸椅子を回転させて翻った。
「あら、雁首揃えて何か用?」
 美晴先生は、慎ましやかな口から漏れる欠伸を手で抑えつつ、小首をかしげていた。
「美晴先生にお願いがあるまして」
 俺がおずおずと尋ねると、美晴先生は唇に人差し指をあてて数秒逡巡した後、
「ここまでわざわざやってくるってことは、同好会の活動場所の話?」
 と、言った。
「察しが早くて助かります」
「新規作成できるような場所も殆ど残って無いしね。作るとしても、何かの同好会と合同っていう形になるけど、そういう雰囲気、この子はあんまり好きじゃないでしょ? それを口に出して言わないけど」
 美晴先生は、美月へと目配せした。
「よく、わかってるんですね」
「長年一緒に暮らしてきた妹の顔を見れば、いちいち言葉にしなくてもそういう機微はわかってくるものよ」
 美晴先生は、美月の顔を見ると微笑んだ。
「だったら端から、ここを活動場所にしていいよっ、て言ってくれればよかったじゃない・・・・・・変に気を使って損したわ」
 美月は、小さくため息を漏らしていた。
 美晴先生は立ち上がると、美月の横に座り、
「ごめん、ごめん。あのときはそこまで頭が回らなかったのよ」
「二日酔いのせいでしょ、どうせ」
「父さんには内緒ね」
 と、美月の頭を撫でた。
「もう、子供じゃないんだけど」
「私からみれば、全然子供よ」
「あっそ」
 美月は不満を漏らしながらも、その手を嫌々振り払うこともせず、成すがままになっていた。
 しばらくして、美晴先生はその腕を離すと、俺の方を向いた。
「いいわよ。この場所を普段使ってる人っていったら私くらいだし。同好会の活動場所にしても」
「感謝します」
「ありがとね」
 美月は、バッグから同好会設立許可願いを出すと、活動場所の欄に第二準備室とこれまた姉にそっくりな綺麗な字で記入した。
「それはそうと、活動内容ってもう決まってるの?」
「ふっふっふ」
 美月は待ってましたとばかりに勢い良く立ち上がると、ホワイトボードの前に立ち、乱雑に書きなぐってあった文字を消し、何やら文字を書き始めた。
 横長のホワイトボードの中央に、赤い字で大きく『ねこねこお悩み相談室』って書くと、そこに二重下線を引いて強調し、ホワイトボードの隅っこを掌でバンッと叩いた。
「どうよっ」
「どうよって言われても、お悩み相談ってのは分かるけど、ねこねこっていう形容詞の意味が全く伝わってこないのだけど」
 右に同じ。
「えっ、何か可愛くない? ただ単にお悩み相談室って付けるより、結構いい線いってると思うんだけどなー」
 そんな単純な理由だったんかい。
「百歩譲ってその名前でいいとして、具体的に何をするの?」
「それはずばり、悩める生徒に寄り添って、この同好会の総力でもってありがたーい福音を与えるのよ!」
 背中が折れるんじゃないかというくらい胸を張っていた美月に対して、
「生徒指導とかじゃ駄目なの?」
 と、美晴先生は尋ねた。
「ちっちっち、同じ生徒の視線だからこそ解決できるもんってのがあるのよ」
「それは一理あるわね」
「でっしょー」
 美月は満足げな表情を浮かべると、鼻を伸ばしに伸ばしまくっていた。
「にしても、他人のことなんて対して興味ないっていう感じの美月が悩み相談ねぇ、どういう風の吹き回し?」
「それは・・・・・・あれよ・・・・・・そういう活動をしたら内申良くなるし、父さんが煩く言わないから」
 美月は、両手をあたふたさせながら応えていた。その様子を美晴先生は一瞥すると、
「そう、じゃあ、基本的な活動内容は生徒の悩み相談っていうことでいいのね?」
 と、俺の目を見て確認してきた。
「そういうことになりますね」
「わかったわ。その内容で生徒会に届けを出すとして、代表者はどうするの?」
「もちろんこの人」
「は?」
 美月は俺を指差すと、素知らぬ顔で口笛を吹き始めた。
「話の流れ的に言えば、あんだけ流暢に語ってた美月が代表者だろうが」
「美月、呼び捨て、ですってぇ」
 美晴先生は額に青筋を浮かばせながら、俺に凄みをかましてきた。なんだろうこの流れ、怒るのはそこじゃない。
 美月のほうに助けの視線を送るが、こいつ、俺の状況を見てほくそ笑んでやがる。
「小僧、面をかせ」
 美晴先生は、俺の首根っこを掴むと、準備室の外に出て扉を閉めた。
 せめて遺書を残す時間くらいは欲しいとか思っていたら、美晴先生は俺から手を離し、
「あの子が自分のことを呼び捨てにさせるくらいなんだから、よっぽど頼りにしてるのね」
 と、優しく言った。
「そんなんじゃないですよ。美晴先生と区別を付けるためだって頼まれただけですし」
「ふふっ・・・・・・あの子ね、中学生の頃なんか自分のことを呼び捨てにした男の子を血祭りに上げてたのよ」
 笑っていいとこ?
「そんな子だけど仲良くしてあげると嬉しいなって思う。一教師じゃなくて、一お姉ちゃんとしてになっちゃうけど」
 俺が血祭りにあげられてもいいの?
「きついっすよ。あいつに振り回されるの。身体的な意味で」
「確かにね。でも、あなたならそれを乗り越えていける力がある、そう思えるのよ。女の勘ってやつかしらね」
「さいですか」
「美月のことを、大事にしてあげてね」
 美晴先生はそう言うと、「明日から早速活動してもらうからねー」右手をひらひらさせて階段を下りていった。
 第二準備室に戻ると、美月はにっしっしと笑っていた。
「どう、こってり絞られた?」
「絞られすぎてボロ雑巾だよ」
 ソファの上に座り、代表者名の所に俺の名前を書く。
「あれま、本当にやってくれるんだ」
「何を言った所で俺に収束しそうだしな。だったら自分から進んでやったほうが良さそうだ」
「賢しい人は好きよ」
「お褒めに預かり光栄です」
 綺麗な字面に浮かぶシンギュラリティ、要はミミズがのたくったような字に若干辟易しつつも、俺は記入を終えた同好会届を受け取った。同好会名『ねこねこお悩み相談室(同好会)』て、本当にこれで通るのか定かではないが。
「生徒会室にこれから届けを出し行くけど、美月も来るか?」
「いえ、きょうは一緒に帰ろうって約束した子たちが教室で待ってるから」
「なら早く行ってやれ。クラスの奴ら指を咥えて待ってるだろ」
「わかったわ。あとはよろしくね」
「はいよ。そうだ、美晴先生が明日から早速活動してもらうって言ってたぞ」
「おっけー」
 美月は手を振ると、軽やかな足取りで教室へと駆けていった。
「頑張るですよ、ご主人!」
 春香が俺の肩を一生懸命もんでいる。
「いっちょやったりますかねー」
 そして俺は、決意新たに生徒会室へと向かった。


 同好会申請というのは、思いの外簡単に受理された。「ねこねこお悩み相談室、ふふふ」という生徒会長殿の嘲笑とも不敵とれる笑みに、恥を感じなかったと言えば嘘になるが、「そんな名前でも通るもんなんすか?」「問題ないと思うよ。似たような同好会に『いぬいぬ探検団』というのもあるから」と、眉唾ものの情報をくれた。それをにわかには信じられなかった俺は、生徒会室を出てすぐにスマホで本校の同好会一覧を調べたのだが、本当に存在したから驚いた。もしかしたら、この人たちも同業者かもしれない。
 後は、月末の部活動代表者会議にて審議という関門を残すのみになったわけだ。きょうの英単語テストも無事に通ったし、まだまだ心残りはあるが幾分晴れやかな気持ちで第二準備室の扉を開けると、美月が既にソファに座っていた。
 美月はマグカップを片手に、放課後ティータイム中だった。
 美月の対面に座ると、「そっちはお客さん用だから、あんたはこっち」と、美月の隣のソファを手で叩いた。カバンを適当におき、その席に座る。
「どうしたの? ずいぶん遅かったじゃない」
「仕方ないだろ。クラスの過激派どもがしつこくつきまとってきたんだからな」
「びしっと言ってやんなさいよ。びしっと」
「無茶を言うな、ただでさえ人の話を聞こうとしない連中なんだぞ。しかも、お前と放課後ランデブーに興じてるなんていう根もはもない噂のせいでとんでもない目に合いそうだったんだからな」
 美月の「同好会活動に協力してもらっているだけだから、あんたたちの考えるようなやましいことは何もないわよ」という発言のおかげで、俺は第二次大戦の勃発は避けられたものの、同好会の活動内容を過激派どもに説明するのは骨が折れた。
「ある意味間違いじゃないでしょ」
「冗談は俺だけにしてくれよ。頼むから」
「なにそれ、口説き文句?」
「お前、いっぺんどつかれたいの?」
「冗談よ」
 と、美月は言うと、新しいマグカップを棚からだし、紅茶を入れ、俺に手渡した。「さんきゅー」「どういたしまして」それに口を付けると、
「先生はまだ来てないみたいだけど、詳しい活動内容って連絡きてたのか?」
 と、言った。
「連絡は入れたんだけどね。その人を一緒に連れて行くまでおとなしく待ってろって」
 美月は、美晴先生とのメッセージのやり取りを見せてきた。
 美月の飾り気のない淡白な文章に対し、美晴先生は絵文字だとか顔文字をあしらった文章になっていた。加えて、それは内容の如何に問わず、文末が全てハートの絵文字で終わっていた。姉なりの愛情表現にしては行き過ぎな気がしなくもないが・・・・・・美月は特に気にする素振りもなかったので黙っていることにしよう。
「待たせたな」
 美晴先生が勢い良く扉を開けると、その隣には入学式のときに美月の隣にいた、おっとり系女子が立っていた。小柄だ。美晴先生が男子顔負けの身長のせいか、輪をかけて小柄に見える。小動物的な可愛さの中にどこか儚げな雰囲気を内包していたその女子は、うやうやしく礼をすると、
「失礼します」
 と、身長に負けず劣らず小さな声で言って、室内に入った。
「えっと、とりあえずこっちに座ってくれるかな」
「へっ、あっ、はい」
 俺の声におっかなびっくり反応すると、ソファの上へと座った。
「んじゃ、あとはよろしく」
 と、美晴先生は言うと、教卓の上につっぷした。その姿勢になってから三秒くらいした後には、既に寝息を立てていた。寝落ちはえーな、美晴先生。
 時計の秒針の動く音が聞こえる。
 美月は、来客用のフラワーティーカップを取り出すと、それに紅茶を入れて、
「はい、どうぞ」
 小柄な女の子の前へ差し出した。
「ありがとうございます」
 白魚のような指先でカップを持ち、口につけてから数秒黙り込んだ後、
「すっごく、おいしいです」
 まるでかまくらの中に備えられた行灯のように、淡く広がる笑みを浮かべた。
「お口にあったみたいで良かったわ」
 美月は、屈託のない笑みを浮かべると、自己紹介を始める。
「私は榎本美月。美月、でいいわよ。そしてこっちは、会長の猫宮薫」
「会長っていっても名ばかりだけどな」
 俺が補足すると、小柄な女子は微笑みつつ、
「私は、皇志乃」
 と、言った。
「確か貴方は、美晴先生のクラスの子よね?」
「はい、そうです」
「先生からこの同好会についての説明は受けた?」
「はい、生徒の悩みをたちどころに解決してくれる場所だと、おっしゃってました」
 まだ一回も活動してないのですが、美晴先生。でも、ホラっていうやつは言葉を変えればビジョンになるっていうし、あながち間違いではないかもな。
「まっかせなさいよ、志乃ちゃん! 大船に乗ったつもりでいてね」
 美月は右手を胸にぽんっと弾ませて、ホワイトボードの前に立ち、
「それで、あなたの悩みって何なのかしら?」
 と、快活な声音で、『ねこねこお悩み相談室』の幕を切って降ろした。
「笑い、ませんか?」
「安心して。もしも笑う奴がいたら私が痛い目に遭わすから」
 俺を見ながら拳を掌に当ててパチパチさせるのは止めてもらえると助かる。
 皇さんは、意を決したように両手を握って小さくガッツポーズをすると、
「私と、友達に、なってください」
 と言って、俯いた。
「はい?」
 クロがすかさず、口を挟んだ。そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。
 だって、ホップ、ステップを飛ばして、いきなりジャンプしてきてるんだぜ? 人と喋るのが苦手だからとか、どういう話題で切り出せばいいかわからないからとか、そういうものを本題に入る前に緩衝材として食い込ましてくれるならまだしも、皇さんのそれは悩みというより依頼に近いし。
 友達がいないから悩んでいるという拡大解釈をしたとして、それを解決するためにこういう発言に至ったという考え方も出来なくはないが、それにしたって、美月が、「きょうから貴方は私の友達よ」って宣言したら、それで終わりじゃねぇか。美月の言葉を借りるなら、余裕よ、余裕っていう相談だ。
「そういうこと、なら、貴方と私たちはきょうから友達よ!」
「よろしくね、皇さん」
 これにて一見落着。めでたしめでたし・・・・・・?
 その証明がどのようにして出現するかわからない俺は、俯いたままの皇さんの周りを見渡してみる。
 しかし、待てど暮せど、代わり映えのしない第二準備室の備品がそこにあるだけだった。
「出てない、みたいです」
「どういう形なのか分からないっていうのも苦労するわね」
 春香とクロも部屋中を隈なく探していたが、結局それは見つからずに首をひねっている。
 その原因が考えられる事実は一つしか無い。つまりは、皇さんの考えている友達っていうのは、おれ、おまえ、ともだち、っていうフランクな挨拶を交わしたら出来るくらいの感覚の俺、そして、美月のニュアンスとは違うってことだ。どうやら俺たちは、とんでもない思い違いをしていたらしい。
 俺は美月に目配せをすると小さく頷いた。その意味に気づいたのか、美月も小さく首肯する。
「そう言って頂けるのは、嬉しいのですが、」
 皇さんは腑に落ちていない様子で中途半端に言葉を切ると、再び黙った。やっぱり友達に関してまだ何か言いたいことがあるのか、俺はそれを聞き出すための切り口を右拳を唇に当てて思案し始めた。
 皇さんの悩みを一本の木にイメージし、そこから枝を生やしていくように解決に至る手続きをマッピングしていく。そして、その工程で生まれた数ある選択肢の中から、信頼性の溝を最小限に抑え、なおかつ、皇さんの悩み解決に当たって一番大きな実を成した最適解を提示する。
「ちなみに、皇さんの考えている友達っていうのは、どういう感じなのかな?」
「どういう感じと言われましても」
「例えば、お互いをあだ名で呼び合うとか、休み時間も一緒に行動するとか、休日も一緒にお茶をするとか」
 皇さんは首をひねって、うーんと唸って、
「皆さんと、放課後、お出かけしてみたいなって」
 と言うと、顔を真っ赤にして俯いた。
 小動物的なキュートさも相まって、可愛い物好きにとっては破壊力抜群の仕草だった。案の定、美月は手をわしわししながら今にも皇さんに飛びつこうとしている。
 美月の獰悪わしわしを右手で制すと、
「きょうは帰る時間が遅くなっても大丈夫?」
 と、言った。
「平気です。帰りが遅くなっても、お父さんに誰と遊んできたんだってちょっと言われるくらいなので」
 俺の家と同じだ。夜分遅く帰っても母さんから誰何されるくらいだし。そんな皇さんに親近感が湧いてきた。
「完璧。なら、今から皆で須野原モール行こっか」
 皇さんは顔をゆっくり上げると、その表情は部屋に入ってきたときよりかは幾分明るくなっていた。
「善は急げってね」
 美月は荒ぶる両手を押さえつつゆっくり立ち上がると、皇さんの手を優しく持ち上げた。皇さんは迫りくる手に一瞬だけびくっと反応していたが、その手をしっかり握り返すと、美月と足並みを揃えるようにして扉の外に出た。
 俺は机の上に置いてあったメモ用紙に、

 きょうはもう帰ります。
 先生、お酒はほどほどにね。
         薫より

 と、書き置きを残すと、ソファの背もたれに掛かっていたブランケットを先生の肩に乗せた。
「早くしないと置いてくわよー」
「今行くよ」
 そして俺たちは、須野原ショッピングモールへと向けて歩き始めた。


 須野原町の中心部に屹立する須野原ショッピングモールは、食料品から、電化製品、衣料品だけでなく、観覧車や、メリーゴーランドといった行楽園も兼ね備えている複合型の施設だ。
「皇さんって、ここに来たことってあるの?」
「いえ、全然、そもそもこういう所に来たことがなくって、でも、一度でいいから行ってみたいって思ってました」
 皇さんは、その目を輝かせながらモール内の全貌を眺めていた。
「私も引っ越してきたばっかりで来たこと無いのよねー。話で聞く分には口を揃えて須野原町で一番人気の場所ってなっていたけど、それにしてもすっごい人だかりね」
 美月の言う通り、夕暮れ時に訪れたためか、モール内の広々とした通路は付近の大学生やこれから夕食を取るであろう家族等でごった返していた。
「さてと、まずはどこに行きましょうか」
「確かあそこに案内板があったと思うから、それを見ながら決めよう」
「そうね」
 美月は、群衆をかき分けて一階のエスカレーター前に備えられていた案内板の前に止まると、視線をあちこち動かした。隣で美月と並んで歩いていた皇さんは、
「私、お洋服を見にいきたいです」
 と、三階の衣服をメインに取り扱っているところを指差した。
「オッケー」
「じゃあ行こっか」
 皇さんを先頭にして、俺たちは三階へと上がっていった。
 軽快な足取りで進んでいく皇さんは、最初に、蛍光色が幾重にも塗り重ねられていた服装が並ぶ店舗の前で立ち止まった。俺たちもその店の前で立ち止まる。
 皇さんは真剣そのもの、ショーケースに収まっていた衣服を食い入るように見つめている。
 俺は、あまりの視線の鋭さで衣服に穴でも開けるくらい前のめりになっていた皇さんに向けて、
「どう、気に入ったものがあった?」
 と、尋ねた。
「今、真剣に見ているところなので、ちょっとだまっててくれると助かります」
「お、おう」
 あれか、好きなもののことになると性格が真逆になるっていうタイプなのだろうか、俺は皇さんを放っておくことにし、「頑張ったですよー」春香の頭なでなでにて慰めてもらうことにした。
「あんなに人って変わるもんなのね」
 美月が傷心中の俺に耳打ちしてきた。お前も似たようなもんだけどな、という言葉が喉から出掛かったが、そんな言葉を投げつけた暁にはどやされること請負なので何とかひっこめ、
「人は見かけによらないんだな」
 と、皇さんだけでなく美月に対しても含蓄させた上で、若干オブラートに包んでつぶやいた。美月はというと、「それもそうね」と言って、色鮮やかな衣服を特に興味もなさげに眺めていた。
 タイムセール中の主婦よろしく服を眺めていた皇さんは、頭を左右に振ると、「次のお店に行きましょう」と言って、店を出た。俺たちも黙って後に続く。
 次に、単色系を重ねているカジュアルなお店の前に立ち止まると、先ほどと同じ感じで服を物色し始めた。今度は声を掛けずに放っておくことにする。特にすることもないので、美月に向けて自分に親指を立て、俺ってば学習能力高いだろって感じのドヤ顔をプレゼントしたら、「冗談は顔だけにしなさいよ」と、鼻で笑われた。そして、例にもれず春香の胸の中で一人しくしく。皇さんはそんな俺たちの戯れなぞ目もくれずに店内を彷徨っていたが、またもやしっくりと来なかったのか、頭を左右に振って店を出た。
 皇さんは、セレブ系も、お姉系も、きれい系のお店でも頭を横に振り続け、半ば俺も美月も諦めかけていたときだった。皇さんは、可愛らしい小物やフリルが付いている衣類をショーケースに飾っていた店舗の前に立つと、鈴懸の樹の吐息が明星を立ち上る予感を孕んだ光を瞳に宿し、
「ここにしましょう!」
 と、即決した。
 オーデコロンの香りがする店内に入ると、皇さんは目を燦々と輝かせながらフリルがいっぱいついた衣服を手に取り、姿見の前でそれを自身に合わせては首を可愛く傾げたり、また似たような衣服を合わせてはキメ顔をしたり、読者モデルとしてそのまま紙面を飾っても問題ないポーズを決めていた。しかし、どれもこれもため息混じりに元の棚へと戻していく。
 今なら話しかけても大丈夫そう、春香に慰めてもらったおかげで元気百倍になった俺は、
「何かいいのあった?」
 と、皇さんに意を決して話しかけた。
「えっと、こういう、ふりふりっ、ってしたの好きなのですが、そんなに似合ってないなって」
「そう? すっごく可愛いと思うけど」
「ふえぇっ」
 皇さんは顔を真っ赤にすると、通学バッグを顔の前に持ち上げて表情を隠した。やっべぇ、可愛すぎて無意識の内に心の中で思っていたことを口走っちまった。
「似会って、ましたか?」
 皇さんは、カバンからちょっとだけ顔を覗かせて尋ねてきた。
「そりゃあもう、すっごく」
「もう一回、今度はちゃんと試着してみますね。よかったら猫宮くんにも見て欲しいなって」
「俺の審美眼は厳しいぞよ」
「お手柔らかに、お願いしますね」
 皇さんはどこか嬉しげな表情をすると、衣服を手に取り、試着室へと向かっていった。
 俺は試着室の前で手持ち無沙汰になっていたら、隣の試着室から美月が出てきた。
「何だ、ここにいた、」
 美月は、黒い猫耳ニット帽に、濃いピンク色のジャギーニット、淡い藍色のフレアスカートに黒のロングソックスを身に着けて出てきた。はっきり言おう。強調のドが付くほど俺のタイプだった。
「なに鳩が豆鉄砲を食ったような顔してんの?」
「いや、その、滅茶苦茶可愛いなと思いまして」
「当たり前じゃない。そもそも私が可愛いんだから」
「・・・・・・なら、何故に試着をなさっているのでせう?」
「実際に着ないと動きやすいかどうかわからないでしょ、あんた馬鹿?」
 美月は試着姿のまま俺の横に立つと、「悪くないわね」飛び跳ねたり腰を回したりしていた。
「さいですか」
 前言撤回、こいつ、やっぱり一ナノも可愛げがない。
 人って、中身あっての物種ってはっきりわかんだね。
 そんな格言じみたことを思いついていたら、
「猫宮くん、いますか?」
 皇さんは俺に聞こえるくらいの小さい声で尋ねてきた。
「いるよ。美月も」
 俺が応えると、皇さんは試着室のカーテンを開けた。
 楽園がそこにあった。断言しよう。天使が、実在した。
「すっごく似会ってるわよ」
 美月は皇さんを見てニコッと笑った。
 皇さんは右手を顔の前でぶんぶん振ると、顔を真っ赤にした。
「美月、ちゃんの方がすっごく似会ってる」
「そんなことないわよ」
 美月は、顔の前で小さく手を振って否定してはいた。
 こいつ、白々しいな。内心おっほっほとか高笑いをしているに違いない。
「猫宮くんは・・・・・・?」
「抱きしめちゃいそう」
「ふえぇっ」
 皇さんはぴょんっと飛び跳ねると、カーテンをさっと閉め、
「これに、します」
 と、言って、がさごそと着替え始めた。
「あんた、そういうの結構正直に言う人よね」
 美月はジトーッとした表情で俺を見てきた。
「仕方ないじゃないか。可愛いもの好きなのだもの」
「まぁ確かに、あれは犯罪級よね」
「間違っても手を出すなよ」
「明日の新聞の第一面を飾るかもね」
「おい」
「冗談よ」
 本当こいつは、懲りないやつだ。
 だけど俺は、そんな奴のおかげで、今、この場に立っていられてる。
 ふと、今までどうして、自分の世界を包み込んでいた殻を割って抜け出すことが出来なかったのか? もっと言えば、近くの電柱で羽を休めていたカラスの鳴き声が、次第に接近し、終いには室内で俺を取り囲んで煩く鳴いていたような世界から脱却できなかったのか? そんな疑問が頭をよぎった。
 今までの俺は、その世界から抜け出した所でまた似たようなカラスの群れが自分を包み込んでくるという恐怖を抱いていたからだ。と言えば聞こえは良いかもしれないが、なんとなく俺は、偶発事に対して疎かっただけなのかもしれないと思い始めた。
 このアポリアを突破できたのも、台風の目が俺に直撃してきたような、宝くじで一等が当選したような、そんなとてつもない幸運で目が覚めたおかげか。
 俺はそう思うと、自然と感謝の念がこみ上げてきた。
「ありがとな、美月」
「どうしたのよ急に、気持ち悪い」
「気持ち悪いは余計だ」
「いてっ」
 美月の頭に軽く手刀をかますと、美月はわざとらしく頭を押さえて俺をキッと睨んだ。
「お待たせしました、って、どうかしました?」
「何もないよ。皇さんは、何か他に気に入った服ある?」
「いえ、私はこれを買っていこうかと」
「そっか、じゃあ先に店出てるぞー」
「後で覚えておきなさいよ」
 背中に不穏な呪詛を受けつつ、俺は店を後にした。

「おーい、そろそろ荷物を持ってくれても」
「あの、美月ちゃん、そろそろ持ってあげたほうが」
「大丈夫、大丈夫。なんてったって男の子なんだもの。あれくらいじゃびくともしないわよ。ねー、会長」
「アッ、ハイ」
 呪詛の効果は美月と皇さんがあの可愛い服を扱ってる店を出た瞬間に発動された。どういう内容かと言うと、二人が購入した洋服袋二つに、学校の通学用バッグ二人分、俺のバッグ一つを合わせて、しめて五個の荷物を持つというものだ。どういう経緯だって? 「重いから持って」「ハイ」「もちろん志乃ちゃんの分も」「ハイ」ご覧の通り。拒否権なんてなかったのです。泣きたい。ちょっと小突いただけじゃないか。
「そろそろお腹減ってこない?」
「そう、ですね」
 すると、皇さんのお腹の虫が「ぐううぅ」と大きく鳴った。すかさず、皇さんは顔を赤らめると、
「フードコートに、行ってみたいなぁ、って」
 と、照れながら言った。
「さぁ、薫くん、私たちをフードコートの元へと案内したまへよ」
「あいあいさー」
 そして俺は、手をコギコギ足をコギコギしてフードコートへの船頭を務めた。
 フードコートには、うどん屋にラーメン屋、ステーキ屋にハンバーガ屋等、和洋の食事処が所狭しと軒を連ねていた。皇さんは、燦々と輝く瞳に衣服を選ぶときのような慎重さかつ丁寧さでもって、フードコートの端から端まで三往復くらいした後に、ハンバーガー屋に置かれていたメニュースタンド前に止まった。
「これがいいです!」
 昨日テレビで取り上げられました、と丸っこい字ででかでかと書かれていたポップが貼られたメニューには、明らかに顔よりも大きいハンバーガーが中央にデデンと描かれていた。もう一つのポップを見ると、顔より大きいハンバーガーとして話題沸騰中だとかいう字が、これまたデカデカと書かれている。美月と俺は、「これ、全部食えるの?」という顔を浮かべていたが、皇さんの表情は余裕綽々だった。あまりの余裕ぶりに、俺は「こういうの普段食べたりするの?」と、皇さんに尋ねたら、「いえ、私、普段はあんまり食べられないんで、こういう時でしかいっぱい食べられないんです」と、言って、口の端からよだれを垂らした。
 行列の最後尾に並ぶと、
「俺、先に席をとっておくから、注文は任せるよ」
 と、言って、小学生の時から使っている折りたたみのおもちゃみたいな財布を取り出した。
 美月は俺の財布をひったくると、
「おごってくれるなんて太っ腹ね〜」
 と、言った。
 いつ俺がおごると言った?
 皇さんが財布を取り上げられた俺を一瞥し、あわあわし始めたので、
「俺、友達は全然いないっすけど、お金だけはいっぱいあるので、余裕っす」
 心配掛けないように、かつ、厭味ったらしい発言を残し、席を取りに向かった。こう言って俺の評価を落としておかないと、いつまで経っても美月の機嫌が直りそうにない。そんな予感がしたからだ。
 ただでさえ少ない小遣いでやりくりしているのだが、思わぬ出費に月末までひえとあわを食べて生活する羽目になりそうだ。「薫さん」「何も言うな」クロの哀れみの視線を背に、ほぼ埋まっていた屋内から出て、テラス席へと足を運んだ。
 一番外側の丸テーブルの席を確保すると腰を下ろした。眼下に広がるモール広場を見渡すと、夕闇の中、淡い光に照らされたメリーゴーランドでは、子どもたちが馬車や白馬に跨ってはしゃいでいた。それを外側で見守る人たちが手を振ったり声を掛けたりしている。
 かつて自分もあんなことをしていたのだろうか、これといった思い出が特に浮かぶこともなく、頭の中に水銀がどろりと詰め込まれていくような、重くて粘ついた面持ちになってきたので、指の腹で顔を擦ると、気分転換に英単語帳を開いた。
「お待たせしました」
 明日の英単語テストの範囲を一通り頭の中に詰め込み終わった頃、美月と皇さんがそれぞれ持っていた盆をテーブルに置き、席に座った。
「これは、また、すごいな」
 皇さんの持ってきた盆の上には、顔よりでかいとかいう言葉通りの大きさの須野原バーガーが三つ、そして、美月の盆の上にはチーズフライ大盛り三つと、ドリンクが三本乗っていた。
「おごりだから一番高いやつを頼んじゃった」
 美月は、何の悪びれも見せない表情を浮かべると、てへっ、と目から星が飛び足してきそうな感じで頭を小突いた。もう、これ以上は何も言うまい。こいつのペースに飲まれたら負けな気がする。
 皇さんが、ピンク色の可愛さと機能性を兼ね揃えた財布を出してお金を出そうとしていたので、
「いや、俺は、可愛い女の子が美味しそうにご飯を食べているの見てるってだけで、お金以上の価値があると思っているので」
 と、純度百パーセントスマイルを浮かべて制した。
 皇さんは、その頭のさきっちょから、ぼんっ、と蒸気機関車並みに勢い良く煙を噴出し始めるんじゃないかってくらい顔を真っ赤にした。
「じゃあ、もっと他のメニューも買ってくればよかったなー」
「お前はノーカンだからな」
「なんですってー」
「ふふっ」
 しまった、悪態をついちまった。でも、仕方ないじゃない、俺だって人間だもの。時には、怒られるとわかっていても言わねばならないことがあると思うのです。それが今、この場面というわけで。
 皇さんが笑ってくれるなら、それも悪くないかもな。
 俺は身も凍えるほどの冷徹な視線を向けてくる美月を他所に、
「食べよっか」
「はいっ」
 ハンバーガーを食べ始めた。

 美月と俺は呆気にとられていた。それは何故かって? 皇さんが蒸気機関車なんてほんの例えで出したものが、嘘偽りなく、まさに、食の暴走機関車だったからだ。
 俺がハンバーガーのみを半分食べ終えてお腹いっぱいになっていた頃、皇さんはハンバーガーを全部食べ終え、チーズフライを口にしていた。
 リスみたいにそれを頬張ったかと思えば、レモネードでずずずーと流し込み、再びチーズフライをぱくぱく詰め込む。その行動を三回繰り返した後、げふぅ、とおよそ女の子から聞いたことのないような音を漏らすと、お腹をさすりながらちまちま食べていた俺たちをじーっと見つめて、人差し指の先を可愛く咥えた。
「よかったら、俺の、食べる?」
「私のも、いいわよ」
「いいんですか!」
 俺たちの返事を聞くよりも早く獲物を手にすると、もぐもぐごくごく、淀みないペースで食べ始めた。いや、流し込むと言ったほうが正解かもしれない。
 ものの数十秒で食べ終えると、今度は、屋内の子どもたちが食べていた七色のソフトクリーム(ゆうに、二十センチは超えていた)を見て、よだれを垂らし始めた。
「食後のデザートも、いいかなぁ、なんて」
「食べましょう!」
 皇さんはお盆を一つにまとめると、そそくさと返却口へと置きに行き、そして、戻ってくるやいなや、俺たちの腕を掴み、ソフトクリームが売っている場所へと競歩選手ばりの速度でもって引っ張った。
 皇さんは、ソフトクリームを人数分購入すると、
「皆さんと初めて一緒にお出かけした記念です」
 と、言って、差し出してきた。
「いや、俺はそういうのは」
「そう、ね、そんな気遣いをさせるのは悪いわよ」
 俺と美月はお腹ををさすりつつ、柔らかく断ろうとしたのだが、皇さんが涙目になってしまったので、シュバッと受け取り、
「いやー、丁度ソフトクリームが欲しかったんだよなー、あっはっは」
「あんたと意見が合うなんて奇遇ね。私もよ。おっほっほ」
 と、言って、ダ○ソンの掃除機ばりの吸引力でもってして胃に流し込んだ。
「私も負けてられない」
 皇さんは、ソフトクリームを上に投げると、大きく開けた口の中へと放り込んだ。どうなってんの、皇さんの人体構造? それに、競争しているわけでもないからね。

・・・



「そろそろ遅くなってきたし、帰ろっか」
「最後に、あれ、乗ってみたいです」
 皇さんは、曇り一つ無いガラス張りの窓の向こう側に映える、きらびやかな観覧車を指差した。
「あれって二人乗りってクラスの子から聞いたわよ? 私は・・・・・・ほら・・・・・・こういうのちっちゃい頃から乗り慣れて飽きてるし、あんたたち二人で乗ってくればいいじゃない」
 美月は言葉だけは至って気丈に振る舞ってはいたが、スカートから生える足は生まれたての子鹿のように小刻みに震えていた。
 クロが俺の耳元にやってくると、
「美月って、高いとこと怖いとこが苦手なのよ」
 と言って、暗黒微笑を浮かべた。これはいつか、この獰悪女に意趣返し出来る時があるかもな。
 皇さんを見ると、どうやらその震えの意図に気付いたのか、笑い出しそうになるのを我慢していた。
「俺でよければ、一緒に乗ります?」
「ふぇっ・・・・・・えっと、お願いします」
 シャルウィー観覧車? を成功させた俺は、隣に皇さん、そして後ろをおっかなびっくりついて来る美月という構成でモールを出ると、観覧車乗り場へと向かった。
 チケット売り場に着くと、またしても美月が俺の財布をぶんどり、
「私の分まで楽しんできてね」
 と、これまた営業スマイルで言って、中高生二枚分のチケットを購入した。俺は今月、公園の水で生きることになるかもしれない。
「どうぞー」
 案内の人に促されるまま、横乗りの観覧車に並んで座る。肩と肩がぶつかる距離なため、黙っていると呼吸の音も聴こえてきそうだ。
 がしゃりと扉が閉まり、ナメクジが這うような速さで動き始めた。徐々に開けてくる視界、皇さんは地上で手を振っている美月に向けて、手を振っていた。
 観覧車の中に、ゴゴゴゴゴ、っという無機質な音だけが響く。
 俺と皇さんを乗せた観覧車が中腹に差し掛かった頃、眼下に広がる景色は、真下のモール広場は人工的な明るさで満ちていたが、その稜線は一面の闇ーー暗くじめじめして助けを呼ぶ声も消えて溶けてしまうようなそんな空間ーーで囲まれていた。別段、高いところが怖いわけではないが、無性に空恐ろしい何かが迫ってくるような感じがした。いたたまれなくなって隣の皇さんを見ると、膝の上に置いていた拳が僅かに揺れていた。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
 言葉は弱々しく、額には脂汗が滲んでいた。それのどこが大丈夫なんだよ。明らかに無理してるじゃねぇか。
 俺は皇さんの拳の上にそっと手を重ねた。ぷるぷる震えていた彼女の手の揺れが、次第に落ち着きを取り戻していく。その様子に俺はほっと胸をなでおろし、手を離したが、須野原町の建物が全て眼下に収まったとき、皇さん瞳から突然大粒の涙がぽたぽたと頬を流れ落ちてきた。そして、皇さんは手の甲で涙を拭うと、俺の肩にぽすっと頭を預けてきた。
 鼻水を啜っている音、不規則に吸ったり吐いたりしている呼吸音、衣服の擦れる音が漂う空間を、淡い暖色の室内灯が照らしている。
 俺は、春香にやってもらうように、「大丈夫、大丈夫」皇さんの頭を撫でた。
 皇さんは、手の甲で俺の手をちょんちょんと叩いてきた。その手を壊れてしまわないように包むと、皇さんは指と指を絡めてぎゅっと握り、
「ちょっぴり、寒く、なってきたみたいです」
 と、言って、さらに頭を密着させてきた。
 俺の肩もちょっぴり冷えて寒くなってはいたが、黙っておくことにした。

 地上に降り立った皇さんはスロープを駆け下り、観覧車出口のゲート下で振り返ると、
「きょうは一日、ありがとうございました!」
 と、溌溂たる表情で礼をした。
「こちらこそありがとね。すっごく楽しかったわ」
「そうだな」
 俺と美月も礼をする。
「あの、また、準備室に行ってもいいですか?」
 皇さんは、もじもじとした仕草で尋ねた。
「いつでもいいわよ。なんだったらうちの同好会の新規メンバーに入っても、むしろ、入ってくれると嬉しいなって、ね、会長」
「もちろんだ。こいつと二人だけだと息が詰まってしょうがない」
「どういう意味よ」
「そのまんまの意味だ」
「ふふっ」
 皇さんは俺たちに向けて破顔すると、
「不束者ですが、ぜひ、よろしくお願いしますね」
 と、言った。
 今にも鞘から伝家の宝刀を抜き出そうとしていた美月も、純真無垢なその姿に毒気を抜かれたようだ。
「放課後毎日、欠かさず来るようにね」
「モチのロンです」
 と、言うと、表情をビシッと改めた。
「家まで送ってくよ。一人じゃ危ないだろうし」
「いえ、私の家ここから近いので大丈夫です」
 と、言って、手をぶんぶん振りながら駆けていった。
 その姿が見えなくなるまで見送る。
「結局、それらしいものは全然現れなかったわね」
「ですです」
 クロと春香は辺りをふわふわ散策していたが、戻ってくるなりしょんぼりしていた。
「まだまだ友達としての道のりは遠いってことでしょ」
「そう、なのか?」
「何か気になることでもあったの?」
「いや、別に」
 観覧車で突然泣き出した件については伏せておこう。守秘義務ってやつだ。あれはただ単に高いところが怖いとしても説明がつかないほど異様な光景だった。そもそも、高い所が苦手だったら勇んで観覧車に乗りたいとは言いずらいだろうし。もしかしたら、皇さんの悩みの本質は、友達を作りたいっていう発言とは別の次元にあるのかもしれない。
 皇さんには俺たちに切り出せていない何かがある。そういう予感を内に秘め、
「帰るか」
「そうね」
 帰路についた。

・・・

 二人と別れた俺は、日がすっかりと落ちた住宅街を歩いていた。

 先程までの喧騒とはうってかわって、食事の用意をする音が家々からかすかに聞こえるほど静まり返った空間。そんな場所にひっそりと佇む木造二階建ての喫茶店の前で、俺は立ち止まった。

「どうしたんですご主人?」

「いやな、春香のことについてお礼を言っておかなきゃなって思って」

 俺が扉に手をかけると、

「ほほぅ、殊勝な心掛けじゃないか」

 外からうら若い女性に話しかけられた。

 女性は一陣の風になびく長い髪を片手でたくし上げ、俺の眼を見つめる。その瞳は、何もかもが見透かしているのではないかと錯覚するほど透き通った碧眼だった。

「来訪が遅れてすみませんでした....えっと、猫神様」

「かぐやでいいよ。私の名前は桐生かぐや」

 かぐやさんは、恭しく礼をする。

「君は確か、薫くんだったね。春香の言っていた通り、真っ直ぐな瞳をしている」

「ふふーん、ご主人はすごいんですよ!」

 春香はなぜか胸をはると、鼻を伸ばしに伸ばしまくっていた。そんな様子をかぐやさんは笑顔で見届けている。

「相変わらず元気そうでよかったよ、春香」

 かぐやさんは春香を二、三度撫でると、

「立話もなんだし寄っていくといい。今夜は私のおごりだ」

 喫茶店の中へと俺たちを迎え入れた。

 ほどよく空調が効いている店内には、一枚板で切り出されたカウンターとテーブル席。店の端っこにあつらえられたジュークボックスは80年代の洋楽を奏でている。

 コンサバティブなスタイルの店内には、何人かの人が座って喫食しており、メイド服姿のスタッフたちが淀みない姿で動き回っていた。

「いいお店ですね」

「ですです」

「そう言ってもらえると、私も冥利につきるよ」

 かぐやさんは照れ臭そうに頭をかくと、俺と春香を海が見えるテラス席へと案内した。

「ここは私のお気に入りの席なんだ」

 眼下には住宅の光がビロードのように広がっている。時々、所々で光が消えたりついたりしている様は、まるで蛍が求愛行動を示しているかのような幻想的な光景だった。そんな蠱惑的な光の群れとは対照的に、その先には漆黒のオーシャンビュー。海岸では、何人かが花火をしているのが見えた。

「ところで、一体私にどのようなお礼をしてくれるんだい? みたところ、何も持ってきてないようだけど」

「それは・・・・・・」

 かぐやさんは俺の瞳をまっすぐに見据え、

「君は物事を正直に捉え過ぎている節がある。そのままではこの世の中を生き抜くのは苦しいだろう。だからこそ、私は君に春香を託したんだ、人というものを理解させるためにね」

と、言った。

「なんで俺が」

「別に君だけじゃない、それは思い当たる節があるだろう?」

 かぐやさんは呼び鈴を鳴らすと、スタッフに注文を告げた。

「とはいえ、すべてがすべて、悩める子羊たちに私が対応できるわけじゃない。神様といっても、所詮は現世に顕現するための仮初の器にすぎないからね。単なる観測者、といってもいい。ただ、君たちは運がよかったんだ。それこそ、宝くじで一等をあてるくらい」

「いままで運がよかったことなんて一度もなかったですけどね」

「それはどうかな」

 かぐやさんは足を組んだ。

「君の周りには、いくらでも機会があった。ただ、それに気づけるだけの余裕と能力が欠けていただけだ・・・・・・でも」

「でも?」

「春香と出会った君は、少しづつ、ただし着実に変化している」

「感謝するといいですよ!」

 春香はふんすと鼻をならした。

「そんなもんなんすかね」

「そういうものだよ」

 かぐやさんは、テーブルに置かれた紅茶に口をつけた。

「きっかけは悲しかったことかもしれない。だがそれ以上に、物事は君が思っているよりもシンプルで、それでいて、美しい」

 俺は机に置かれた飲み物に口をつけた。仄かに香る茶葉の艶やかな風味、そして舌触り滑らかな余韻。

「ところで、春香のノルマの件ですが」

 俺は本題に入ることにした。

「人の願いを叶えた先に出てくるものって、一体なんなんですか?」

「それがどんな形となって現れるかは、私にもわからない。ただ一つ言えることは、それを受け入れるかどうかは、君自身の選択に委ねられている」

「はい?」

「それが表出したとき、この意味がわかるようになるさ」

 かぐやさんは軽く背伸びをすると、

「さてと、すっかり話し込んでしまったね。良い子はそろそろ帰る時間だ」

と、言った。

・・・

 翌日。初めての体育の授業。男女別れてのそれはレクリエーションを兼ねたボール遊び。もっと言うと、ドッジボールというやつになった。
「それじゃあ、二つのチームに別れろー」
 ジャージ姿の体育教師が大地を揺らすほどの大声で宣言すると、それまで何事もなく平然と過ごしていた過激派が徒党を組み、表面上はきっちりチーム半々に別れていたが、実情はそいつらバーサス俺、という構造になった。先生、貴方の目の前で生徒のいざこざが起きそうになってるんですよー。あいつらの目を見て、明らかに人を殺しそうな目つきだよー。教育委員会に訴えられる前に何とかしてー。

 先生はというと、鼻をほじりながら「おし、じゃあこれはハンデな」と言って、俺にボールを渡してきた。
 先生、この状況を黙認してますよね?
「一応聞いておくが、今度は何なんだよ」
「昨日、榎本さんと一緒に須野原モールに行っていたそうじゃないか」
「それは同好会の活動で、」
「隣のクラスの皇さんも一緒にいた理由は?」
 こいつらの中に探偵でもいるのか?
「それも同好会の活動で、」
「だまらっしゃい」
 どうしろと?
「つべこべ言わずボールをこっちに投げなよ、ひっひっひ」
 危ない薬でもキメてるじゃないかっていうくらいよだれを撒き散らしているやつがいる件について。
 この状況を打破するべく、思考を巡らせる。
 そもそもボールを投げないのはどうか、いや、これは駄目だ。俺がボールを投げなかったら、奴らは四次元空間からハリネズミ並にぎっしりと棘を敷きつめたボールを取り出してきて、強制的に死合を始めるかもしれない。
 なら、ボールを適当に投げて自分からわざと当たりに行けば終わりか、いや、これも駄目だ。顔面はセーフとか言うに事欠いて、俺の息の根を止めるくらい執拗に頭を狙ってくるに違いない。
 考えに考えを浮かばせた結果、どの手段をとってもまともな結末を迎えることは出来ないと悟った俺は、最終手段を取ることにした。きっと、先生も納得してくれるはずだ。だって俺は、何はともあれ、生徒なのだもの。
 どういう方法かって?
 右手を今にも倒れ込みそうなほど弱々しく上げ、
「熱っぽいので保健室行ってきます」
「喋れる余裕があるなら大丈夫だろ」
 ーー了ーー
 ーー開ーー
「大丈夫?」
 腫れ上がったほっぺたの痛みを地面の冷たさで落ち着けようと突っ伏していた俺が顔を上げると、目の前には、片膝をつきながら、女の子と勘違いしそうなほど可愛い男の子がいた。
「何も言うな。優しさで何も見えなくなっちまうじゃねぇか」
 じんわりと熱を帯びて腫れ上がっている頬に、涙がしみて痛い。
「ほら、僕の肩を使って」
「すまねぇ。えっと」
「智です。黒野智。君と同じクラスの」
「俺は猫宮、」
「薫くんでしょ。入学早々あれだけ目立ってたら、嫌でも覚えるよ」
「さいですか」
 智の肩を借りつつ、教室へと向かう。
「それにしても、さっきの話って本当?」
「何が?」
「三組の皇さんって人と一緒にいたっていう」
「そうだけど」
 僕、皇さんと中学が同じだったんだけど、と智は前置きして、
「あの子、中一の時から不登校だったんだよね」
 と、耳打ちしてきた。
・・・・・・
・・・

 全学年の生徒が集まっても問題ないほど広々とした食堂に、俺と智はやってきた。昨日、いつになく上機嫌だった母さんに、「小遣い前借りさしちくりー」「いいわよー」と、二つ返事で頂いた諭吉様を握りしめ、カレーライスの食券を購入し、ご飯ものの列へと並んだ。母さんのバッグが新品になっていたことは父さんに黙っておこう。
 智は味噌ラーメンの食券を購入すると、「僕のほうが早そうだし、窓際の席とっておくねー」と、猫みたいに俊敏な動作で、麺類の行列へと並んだ。
 具のへったくれもないレトルトカレーを手に、智の行方を探す。窓際を見やると、六人掛けの食堂用テーブルの中央の席に、智は凛とした姿勢で座っていた。俺のことに気づくと、花が咲き誇ったような表情で、背伸びをしながら手招きした。
「わりいな、結構待たせた」
「ううん、気にしないで」
 智の対面のプレハブ椅子に腰掛ける。
「にしてもここの料理。家で作ったほうが全然よさそうだな・・・・・・」
「そうかな? 変に飾ったものよりすっごくおいしそう」
 智は小首をかしげて微笑んだ。
 ずぎゅぅぅんと、心の臓がぶち抜かれた感じがする。落ち着け、俺。目の前にいるのは男の娘だ。春香の訝しげな視線を遮り、何回か咳払いをはさむ。
「それで、さっきの話の続きだが」
「皇さんの?」
 麺をすすろうとしていた智は、一旦箸を置いた。「麺が伸びちゃうし食べながらで大丈夫だよ」、と言うと、ニコニコしながら小さい口ですすり始めた。
「知ってる範囲でいいから、彼女のことについて教えて欲しい」
「そんなに皇さんと仲が良かったわけでもないから、詳しい話は出来ないんだけど・・・・・・僕、中一のとき、皇さんと同じクラスだったんだ。皇さんって、入学したての頃はすっごく元気で明るい感じの子だったんだけど、あれは、うーんと、夏休みが始まる直前くらいだったかな、突然、休みがちになってたんだ。たまに学校に来たときに話しかけてはみたんだけど、取り付く島もないっていう感じで、俯いているだけだった」
「それは何か原因みたいなものってあったのか? 例えば、クラスでいじめ、られたりとか」
「ううん、全然そんな様子は無かった、と思う。僕自身、そういった現場を見たことがないから、それが本当かどうかってわからないんだけど。少なくとも、いじめを受けているような感じはしなかった」
「そうか」
「それで夏休みを過ぎた頃に、ぱったりと学校に来なくなっちゃったんだ。先生が言うには体調不良だって。それからは特に音沙汰もなくて、二年の時は別のクラスになっちゃったし」
「なるほど」
「この高校の入学式のときに、何か見覚えがある人影だなぁと思ってたんだけど、さっき皇さんの話を聞いて、はっと思い出したんだ」
「昨日話した分には、特に問題はなさそうだったんだけどな」
「そうだったんだ」
 智は再びニコっと笑うと、
「元気そうでよかった」
 と、言った。
「きょう、うちの同好会に顔を出すって言ってたから会ってみるか?」
「急に顔を出して吃驚されないかな」
「多分、大丈夫だと思うぞ」
「なら、お言葉に甘えて」
「了解」
 そして放課後、俺は智を連れて第二準備室へと向かった。

 第二準備室の扉を開けると、教卓の上に突っ伏している美晴先生、それと、美月と皇さんは横並びに奥のソファに座って、放課後ティータイムを堪能していた。
「後ろの子は、智くんじゃない」
 美月が俺の後ろについてきた智に気づくと、目をギラリと細めた。智は、その視線に臆することなく、かかとを揃えてきっちり姿勢を正すと、深い礼をした。
 俺が部屋に入ると、智は部屋の外で突っ立っていたので、「入りな」「失礼します」ソファに誘導した。
「どうしてここに?」
 美月は、来客用のティーカップと猫柄マグカップに紅茶を注ぐと、それぞれ智、俺の前に置いた。
 特に相談があるわけではなくて、と智は前置きすると、
「薫くんから皇さんがこの同好会にいるっていう話を聞いたので、元気なのかなって・・・・・・えーと、僕のことを覚えていますか、皇さん?」
 と、言った。
 皇さんは魚の小骨が喉に刺さって取れないような、もどかしい表情を浮かべると、
「・・・・・・もしかして、黒野くん?」
「はい。皇さんと同じクラスでした」
「合ってたぁ」
 と、言って、溜飲が下がった表情を浮かべた。
「なになに、中学時代からの友達?」
 美月が皇さんの脇を小突きながら尋ねた。
「私が中一の時に同じクラスだったんです・・・・・・といっても、私、一年の夏休みから学校に全然行ってないから、覚えててくれたなんて吃驚です」
「あっ・・・・・・ごめん、なさい」
「いえ、私の方こそ、ごめんなさい。でも今は、こうして学校に来られてるわけですし」
 皇さんは表情こそ苦笑していたものの、目の奥に観覧車の一番上で見たような不安定な影が差さったような気がした。
 心配してくれてありがとう。皇さんは礼をすると、
「私は全然元気だよ」
 と、自分に言いきかせる感じで言った。
 智はその言葉に微笑みをもって応えると、第二準備室に沈黙の妖精が舞った。
 無理している感じ、というのは、面と向かってはわかりにくいが、ちょっとした仕草でわかる時もある。現に、皇さんのティーカップを持つ手がほんのわずかだけどカタカタと震えていた。だけど、これ以上皇さんに干渉することは、彼女自身における何らかの悩みからの自然治癒力を摘み取りかねない。それを最優先に活かすことは悩み解決に当たって前提条件であるということを念頭に置き、そして、皇さんの口には出さないにせよ、身体的な特徴として現れる何らかの兆候を見逃さず、その軽減を一つの尺度とし、彼女の一挙手一投足を見据えて安定化させるように心がける。
 つまり俺は、不必要なほどしんみりしてきた空気を切り替えるべく、
「どうだ? 智もうちの同好会に入るか?」
 と、尋ねた。
「ううん、僕はもう入る部活は決めてるんだ」
「ほー、どんな部活動?」
「弓道部にしようかなって」
「うちの弓道部って全国でも毎回上位に入るほど強いって聞いたけど・・・・・・もしかして」
 美月が智の顔を見ると、
「智くんって、あの伏見中の黒野智くん?」
 と、尋ねた。
「恥ずかしながら」
 智は頭を掻いた。
「すごいのか?」
「すごいのなんのって、中学の時うちの学校にも弓道部があったんだけど、毎回個人競技で全国一位をかっさらう子がいるって話題になってたのよ」
 運が良かっただけですよ、と、智は謙遜していた。
「すげぇな」
「しかも、男の子なのにすっごく可愛いっていう噂でもちきりだったわね」
「そんな、僕は、可愛くなんか・・・・・・」
 智は顔を赤らめると、涙目になっていた。
 もうすっごく可愛い、食べちゃいたい!
・・・・・・
 だが、男だ。今すぐにでも襲いたくなる気持ちを引っ込めて対面のソファを見ると、類は友を呼ぶっていうやつか、美月だけならまだしも、皇さんまで両手をわしわしながら俯いたまま微動だにしない智に近づいていった。俺は立ち上がり、そんな二人の顔をアイアンクローでガシッと掴む。「会長をあんまり怒らせるんじゃありません」二人にだけ聞こえるようにつぶやくと、二人はしおしおとソファに戻った。俺の暴挙を許せ。智がなでなでもふもふされてあられもない姿になって、涙ながらに「もう、お婿に行けない・・・・・・」なんて聞いちまった暁には、その足で役場に行って戸籍の性別を変えてもらうまで土下座し続けるに決まってる。そんでもって、その認可が下りたら智との逃避行を・・・・・・
 いつの間にか両手をわしわししていた俺に対して、美月と皇さんが遠巻きに凄みを効かせてきた。ナニコレ、凄みって榎本家のみに伝わる奥義なんじゃないの? いつの間に皇さんも継承したの? 全身の細胞という細胞が震え上がってきた。
 俺はソファに座り、こほんと咳払いをすると、
「智は、男らしいぞ」
 と、智に向けてサムズアップ。
「薫くん・・・・・・」
 智は両目を擦ると、俺の胸に飛び込んできた。
 ちっちゃい頭を俺の胸に押し当て、水浸しになった子猫がその身にまとわりついた水を振り払うように左右にごしごししてきた。俺は、智のこれまたちっちゃい背中に左腕を回して、空いた手で智の頭を撫でると、「えっへっへー」上目遣いで見つめてきた。
「誰にでもそういうことしてるんですね」
 皇さんの呆れた視線。
「あいつ、ああいうのに限っては節操なしだから」
 美月の訳知った視線。
「ご主人・・・・・・」
「薫さん・・・・・・」
 春香とクロの憂いに満ちた視線。
「かはっ」
「どうしたの薫くん!」
 口から飛び出してきた真っ赤な何かを拭うと、断腸の思いで智を引っぺがし、
「そろそろ弓道部に顔を出さなくて良いのか?」
 と、言った。
「うん。行ってみるよ」
 智は、少しばかり乱れた髪をちっちゃい手で正すと、立ち上がり、
「また失礼しますね」
 と、邪気のない笑顔を浮かべた。
 外光を厚手のカーテンで遮断し、蛍光管の真っ白な光によってのみ照らされていた第二準備室に、ほわほわほわとうららかな陽気が漂う。
「またねー」
「いつでも来てくださいねー」
 夢現な面持ちで美月と皇さん、もちろん俺も手を振ると、「失礼しました」智は扉の外できっちり礼をして、準備室を出ていった。
「男にしておくにはもったいない可愛さね」
「中学の時よりも可愛くなってましたよ」
 美月と皇さんは、ほうと顔を赤らめていた。
 俺はそんな様子を眺めつつ、皇さん、ちょっとは元気を取り戻してくれたみたいでよかった。と思いながら、マグカップに口をつけた。

「きょうはどういう活動をするんですか?」
 皇さんは、目を輝かせながら言った。
「うーん、活動と言ってもね、うちの同好会って正式に認められたものじゃないから、学内で大々的に出来ることがないのよ。ポスターを作って、お悩み相談募集、みたいな。と言っても、来てくれた人には対応できるんだけど・・・・・・それに」
 美月は俺に目配せしてきた。俺は頷く。
 まだ、皇さんの悩みが解決されているわけじゃない。
「だからさ、悩み相談っていうのは一旦置いといて、せっかく皇さんがこの同好会に入ってくれたんだし、何かお祝いが出来たらなーなんて思ったり」
「本当ですか!」
 皇さんは勢い良く立ち上がったため、机の縁にすねを強打すると、
「いったぁ」
 と、すねを擦りながらソファの上でうずくまった。
 美月は、そんな皇さんの背中をさすりつつ、
「志乃ちゃんは何か欲しいものってあるの? 会長さんが新入祝に何でも買ってくれるって意気込んてたわ」
 いつですかね?
「そうですねぇ」
 ちょっとは遠慮してくれてもいいのよ? とは言えないので、
「会長さんにまっかせなさい」
 と、胸を張る。財布の紐が過労死しないかどうか心配です。
「もの・・・・・・じゃないんですけど、皆と一緒に映画館に行きたいです」
「映画館?」
 俺は、目をぱちくりさせて尋ねた。映画館てあの映画館だろ? 皇さんに関する数少ないデータから彼女の欲しいものを勝手に予想していたのだが、祝いといったら食べ物! みたいな感じで、ウェディングケーキばりに積み上げられたデザートだったり、回らない寿司を食べ放題みたいに食らいつくすみたいなものを期待していただけに、若干拍子抜けした。
「はいっ、大きなスクリーンでドーンなったりバーンとなったりするところです」
 映画館の意味を聞きたくて復唱したわけではないのだが、そんなことを皇さんに言って「実は俺、かくかくしかじかで」なんて、皇さんのことを勝手にイメージしていたなんて間違っても言えないので、
「映画、好きなの?」
 と、話を広げる。
「そりゃあもう大好きです!」
 もう一度ダーンッと立ち上がったが、今度はちゃんとすねをぶつけないように机から距離をとっていた。
「何と言ってもですね。あの大きなスクリーンに映る役者さんたちの鬼気迫る演技! そして、それに合わせて生み出される脳を揺さぶるような大迫力の効果音!」
 ほうほう。
「それもさることながら、カップの中にこんもりと盛られたポップコーン! 特に私はキャラメルコーンが好きなんですけど、あのほろにがーい味とさくさくっとした食感のマリアージュ、」
 ん?
「それと、映画館といったらコーラは外せないですよね! ポップコーンを食べてからからに乾いた口と喉をしゅわ〜って駆け抜ける爽快感と刺激は、はぁはぁ、じゅるり、」
 あの?
「それとそれと、最近だとチーズなんちゃらっていうのが流行っているみたいで、これも食べてみたいな〜、一口パクって食べて地面に落ちそうになるチーズを、ああ、危ないっていう感じで素早く口の中に入れてそしゃくして、」
 ねぇ、志乃ちゃんて映画を見たいんじゃなくて、美月が俺の方を見る。
 皇さんの方に視線を戻すと、ハミを味わっている馬みたいによだれを滴らせていた。
 やっぱり食べ物なんですね。わかります。
「早速食べに行きましょう!」
 見に行きましょう! ではないんですね。というツッコミをしたくなる気持ちを押さえ、俺たちは須野原モールに常設されている映画館へと向かった。

 テーミス像が、左手に両皿天秤を持ち、右手に剣を携えて正義を象徴しているならば、皇さんは、左手にポップコーン(ラージサイズ)、右手にコーラ+チーズハットグ(いずれもラージサイズ)という姿で食欲を表徴していると言えよう。
 皇さんは、両手に花でも抱えてるんじゃないかってくらい、にっこにこしながらチケット売り場の列に並んでいた。
「どれを見ましょうか?」
 美月がスモールサイズの紅茶を飲みながら尋ねた。
「うーん、今やってるのでよさそうなものは・・・・・・あれなんてどうでしょう?」
 皇さんは、二丁拳銃を構えた女性が中央に描かれたポスターを指差した。確かこれってゾンビと人間との戦いを描いたものだったか、テレビのコマーシャルで見た感じでは結構怖かったような。美月の方を見ると、果然として足がすくんでいた。
「私は・・・・・・こういうのは・・・・・・ほら、」
「俺も見たかったんだよなー」
 わっかりやすい言い訳なぞさせぬわ!
「どうしたの? 見ないの? 怖いの苦手なの? 十六にもなって? 委員長のくせに?」
 返事の隙を与えないほど早口でまくし立て煽る。
「・・・・・・見るわよ」
「やっぱり別のにしよっか、皇さん。あぁあ、見たかったのになぁ」
「・・・・・・見るって言ってんでしょ」
「さぁて、どれを見よっか」
「・・・・・・見りゃあいいいんでしょ、しゃんなろおおおお」
 美月は俺のブレザーのポケットから財布を抜き取ると、ズカズカと受付へとがに股で風をきりながら進んでいった。
「美月の怖がってる所、いっぱい撮ろっと」
 クロは、どこから出したのかデジカメでパシャパシャ写真を撮っていた。
「場内の写真撮影は禁止です」
「冗談よ」
 クロは、俺に向けてウインクした。
「あの、やっぱり他の映画にしてあげたほうが」
「問題ないですよ。あいつ、皇さんの新入祝いなんだから、いっちょ一肌脱ぎますかって言ってたので」
「そんな感じに見えないような」
「照れ隠しですよ」
「そう、なんですか?」
「そうなんです」
 皇さんの目を真摯に見つめていたら、その顔が真っ赤になった。
「ほら、さっさと行くわよ」
 美月は、三人分のチケットを持ち、俺のブレザーのポケットへ無造作に財布を戻すと、そそくさと劇場の中へと進んでいった。
 シアター内に入ると、上映前で明るい室内にはちらほらと人がいた。後部座席の中央、スクリーン向かって左から、皇さん、俺、美月という並び。
 席に座るやいなや、皇さんはまず、チーズハットグを一口かじってその中から出てきたチーズをびよーんと白糸のように伸ばすと、それを口の中に急いで運んでむしゃむしゃして、甘美な表情を浮かべた。三口でそれを処理すると、次いで、左手いっぱいにポップコーンを掴んで口に運んでは右手のコーラで流し込み、至福の表情を浮かべていた。
「それにしてもすごい食欲ねぇ」
「人の話も聞こえないくらい食べるのに集中してるってのがすごいよな」
「大食い選手権に出たらいい線いけるんじゃない?」
「食べるのに夢中すぎてコメントも出来ないのはどうなんだ?」
「それもそうね」
 シアター内の照明が徐々に暗くなってくる。
「美月、わかっているとは思うが、目を瞑るなよ?」
「なっ、そんなことするわけ、」
「見てるからな?」
「・・・・・・」
 そして、完全にシアターの照明が落ちた。
 スクリーンの明滅によってのみ照らされていた美月の顔を見ると、その表情をうかがい知ることは出来なかったが、椅子の震えが隣から伝播してきたという事実だけで十分だ。しかし、本当に俺の言ったことを守っているかどうかまで定かではない。
 徐々に慣れていく視界、本上映が始まる前に流される劇場内における注意事項を耳をつんざくような轟音にて聞き取りながら改めて美月の顔を見ると、目を瞑り、耳を塞いでいた。
 美月の左手を耳から引き剥がすと、「委員長は嘘なんかつかないよなー」耳元でささやく。
 美月は俺の膝を思いっきり足蹴すると、両手の人差し指と親指をそれぞれ瞼の上下に押さえ、元から大きい目をさらに見開いた。
 成敗完了。
 俺の左側に座っている皇さんを見ると、食事音が広がらないようにゆっくりとポップコーンをそしゃくしていた。
 二人の様子を見届けた俺は、席を座り直して腰を落ち着け、映画を見始めた。


・・・


 上映が終わり、シアターの照明が明るくなった後部座席の中央に、満足げな表情を浮かべてお腹をさすっていた皇さん、なかなかアクションシーンが見応えあったなとゴチていた俺、そんでもって、あらゆる感情の波が行き場を失って、もはや、無の境地に至っているのではないか、というくらい茫然自失の美月がいた。その目の前に手をかざしてみるが、全くもって反応が無い。
「やりすぎたんじゃ」
 春香が心配そうな目で俺を見つめてきたが、俺は春香に手招きして耳元に寄せると、ニ三言伝した。その言葉を受け取った春香は、美月のもとへとふわふわと浮いて、その耳元にささやいた。刹那、美月ががばっと起きると、手をわしわししながら辺りを見渡し始めた。
「どんな魔法を使ったのよ」
「クロ、きょうは俺の家に泊まるか?」
「私を、売ったわね?」
「すまぬ」
「○す」
 美月はクロの存在に気づくと、目をダイヤモンド型にきらりと光らせた。全力で逃走するクロ、その後を追う美月。
「いきなり立ち上がってどうしたんでしょうか?」
 頭に疑問符を浮かべた皇さん。
「お花でも摘みに行ったんでしょう」
 クロに幸あらんことをと願う俺。
「クロちゃんに盾にされた恨み晴らさでおくべきか」
 ふんすと鼻息を荒らげる春香。
 いつまでもこんな日常が続けばいいな、俺はそう思いながら、シアターを後にした。